戦国武将でありつつ、有名な茶人がいる。その名も古田織部(古田重然)であり、2011年にアニメ化されたマンガ「へうげもの(「ひょうげもの」と読む)」のモデルでもある。そもそも古田織部自身について「宗湛日記」にて「へうけもの」と呼ばれていたことがルーツと言える。もっとも「へうげもの」や「へうけもの」は字音仮名使いにおいて「おどけた人」「ふざけた人」を意味している。武将でありながら茶人であったという事においてよくある武士とは異なるため、ふざけているように解釈されるような他の武将もいたのかもしれない。
本書の話に戻す。武将として織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と戦国の三代武将のいずれにも仕えた人物の一人でありながら、茶道の始祖である千利休の弟子であり「利休七哲」の一人とももてはやされた古田織部の生涯はどのようなものだったのかを追っているのが本書である。
第1章「一大茶人に至るまで―生誕から信長時代」
古田織部が生誕したのは1543年ごろと言われているのだが、諸説あり、実際に何年生まれなのかは定かになっていない。場所は美濃国(現在の岐阜県)の出身で、同国の守護であった土岐氏の家臣の一族から生まれた。武士としてのイロハを学び、その後、織田信長のもとで武士として活躍することとなる。
第2章「利休の門人となる―豊臣政権確立期」
信長が本能寺の変で倒れ、秀吉のもとにつくようになったときに、千利休との出会いがあった。もっとも千利休の門人は数多く、古田織部のような武士のみならず、町人にも門人がいたほどである。利休のもとで、茶人としての道を究めるようになったのだが、なぜ利休七哲に選ばれたのか、そしてその中での立ち位置について取り上げているのだが、「七哲」というと選りすぐりである一方で、必ずしも良い意味でとらえられていないところも特徴的である。
第3章「師の側近として―天下人秀吉の時代」
武士と茶人の両方の顔を持つエピソードとして豊臣秀吉のもとにいた時代を本章にて取り上げている。千利休の門人としても役割があり、茶の道を進みながらも、茶会を開いたり、参加したりすることも言及されている。その中には秀吉の茶会に帯同した話もある。
第4章「天下一の茶匠―関ヶ原合戦前後」
古田織部は秀吉の死後、徳川家康のもとについた。関ヶ原の合戦の時には家康側の交渉役として活躍するまでになった。と同時に徳川家の茶の湯の指南役となり、天下一の茶匠と呼ばれるようにまでなった。このころから茶人として、茶釜や茶碗などの道具にもこだわりを見せるようになり、そのさまを「へうげもの」と言われることにまでなったという。
第5章「巨匠の死―大坂夏の陣まで」
栄華はやがて朽ち果てるようになる。家康が徳川幕府をつくってからは全国の武将たちの茶匠として東奔西走する毎日であった。しかしながら、その毎日の中で豊臣家の内通の疑いが向けられ、大坂夏の陣にて捕らえられ、切腹を命じられ、切腹自殺し、生涯を終えた。
まんが「へうげもの」は古田織部の生涯を原案とし、エキセントリックに作られているのが特徴的であるのだが、そのエキセントリックさは茶匠として活躍してからの行動がまさに「へうげもの」を引き立たせていた。戦国から江戸時代初期にかけて活躍した武将、それ以上に茶人として有名だった人物は今日の茶道の中に色濃く残っていると言える。
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