19歳の連続射殺魔 永山則夫事件と60年代

本書の事件が起こったのは1968年のこと。今から51年も前の話である。当時の日本はと言うと当時は東大を始めとした大学紛争が行われた年でもあり、世界に目を向けてみると「プラハの春」など象徴的な事件・出来事が立て続けに起こった年でもある。本書で取り上げる「永山則夫連続射殺事件」も象徴づける事件であるのだが、事件の内容もさることながら、司法の場において「永山基準」の慣例がつくられるきっかけとなった事件でもあり、殺人事件における裁判でよく引き合いに出される。

本書はこの永山則夫連続射殺事件の事件発生から終息まで、そしてこの事件によってもたらされた「呪縛」について取り上げている。

Ⅰ.「事件」
この事件は1968年に起こっているのだが、10月~11月にかけて合計4回の射殺事件が起こった。もっともその4件の射殺事件は場所が異なるものの、凶器は同じ拳銃であり、動機については、屈折した生い立ちと社会に対する憎悪と復讐があった。

Ⅱ.「逮捕」
4件の犯行後、指名手配をされたのだが、犯人は当時19歳でありながらも、当時としては異例だった実名報道もされたほどであった。逮捕されたのは最後の射殺から5ヶ月後の1969年4月のことであった。

Ⅲ.「逃走」
犯行から逮捕まで5ヶ月逃走し続けてきたのだが、そのなかでも逃亡劇があったのだが、事件以前にも、職を転々とするなど、ある種の逃避行を行うような人生を送っていた。

Ⅳ.「射殺」
そして射殺を4件繰り返した。もっと言うと金銭に困ったことにより、逮捕当日にも5件目の事件を起こそうとした。しかしながら、それは未遂に終わってしまい、逮捕されることとなった。

Ⅴ.「呪縛」
もっとも永山が連続射殺事件に手を染めた背景としては、屈折して育てられたことに関しての呪縛が中心としてあげられている。しかし本章では言及していないのだが、裁判などの司法の場において、殺人事件について死刑判決を下す際に人を殺した人数などを定めた「永山基準」ができ、長きにわたって殺人事件と照らし合わせられ、裁判における世間と司法の乖離の温床として挙げられることが多く、裁判官の多くはその永山基準の呪縛に今もなお縛られている。

永山則夫連続射殺事件は事件発生してから50年以上経つほどの昔の事件ではあるのだが、この事件は今もなお日本の司法のなかに横たわっている。10年前に裁判員裁判が制定され、永山基準を破るような判決があったとしても、二審で破棄される事例もいくつかあったのだが、このときも永山基準が採用された。とはいえここ最近では永山基準の見直しの動きもあり、変わってくることを期待したいのだが、その足取りは重いと言うほかない。

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