東大教授の「忠臣蔵」講義

忠臣蔵は元々「赤穂事件(あこうじけん)」を歌舞伎・人形浄瑠璃として「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」として上演され、名付けられた。もっとも「赤穂事件」は1701年の4月に起こった浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったところから端を発し、その2年後の冬(旧暦では12月14日、新暦では1月30日)に討ち入りをしたと言う事件である。もっともその討ち入りのきっかけとなった浅野内匠頭が泉岳寺に埋葬されている(他にも赤穂浪士が葬られている)ことから東京でも有名な寺院として挙げられる。

その事件から47年後に大坂にて人形浄瑠璃として初演されたことがきっかけで多く演じられるようになり、歌舞伎に伝播し、さらには現在は時代劇でも放送されるようになった。本来は1月であるのだが旧暦の12月であるイメージが強く、12月の時期になるとテレビで放送したり、舞台で演じられたりするほど有名である。

前置きが長くなってしまったが本書の話に移る。本書はその忠臣蔵について諸説あるのだが、史料を元にしてライブ講義の形で解説した一冊である。

第1章「刃傷松の廊下~ドラマはここからはじまった」
忠臣蔵、もとい赤穂事件のきっかけとなったのは1701年3月(新暦4月)に浅野内匠頭が吉良上野介を江戸城内にある松之大廊下にて切りつけたという事件である。その事件で浅野内匠頭は将軍から切腹命令が下され、切腹した。その要因としては忠臣蔵としては浅野内匠頭の妻を吉良上野介が奪ったとされているが、こちらは忠臣蔵としての「創作」であり、実際は吉良が老中に対して発言した内容に腹を立てたことにあるという。

第2章「赤穂城開城~揺れる赤穂藩」
浅野内匠頭は切腹を命じられた一方で吉良上野介は全くおとがめがなかった。またこの事件を機に場服は赤穂城を明け渡すよう藩に要請したのだが、それを受けたのが浅野内匠頭の筆頭家老であった大石内蔵助であった。その知らせを受けて開城をするかどうかなどの議論が続いた。最終的には開城することとなった。

第3章「江戸急進派と大石内蔵助~討ち入りか、浅野家再興か」
赤穂城にまつわる議論のなかで赤穂藩のなかでも意見が真っ二つに割れた。方や大石内蔵助は浅野家再興を目指すようにしていたのだが、堀部安兵衛をはじめとした江戸急進派は討ち入りに強くこだわった。この対立は鮮明化し、それぞれの行動となり、分裂状態となった。

第4章「御家再興運動の挫折~脱盟していく同志たち」
しかしその浅野家再興については閉門により頓挫した。そのことがきっかけとなり、今日との円山にて会議が行われ、討ち入りをすることとなった。このことがきっかけとなり、赤穂藩の同志は120人ほどいたのが50人ほどにまでなった。

第5章「討ち入り前夜~時は至れり」
討ち入りは冒頭にも書いたとおり旧暦で12月14日と決まってから、討ち入りまでに3人さらに脱盟することとなり、47人で討ち入りすることとなった。忠臣蔵でも出てくる「四十七士」である。

第6章「吉良邸討ち入り~決戦の時」
12月14日ついに討ち入りを行い、吉良上野介を討ち取った。その後浅野内匠頭が眠っている泉岳寺へ引き上げた。その一部始終を取り上げている。

第7章「赤穂四十六士の切腹~その後の赤穂浪士たち」
この事件を幕府は「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたと扱い、浪士全員に対し切腹を命じた。しかし実際に切腹でなくなったのは46人であり、1人足りない。誰かというと寺坂吉右衛門信行であり、討ち入り後に逃亡し、生き残った。もっと言うと「四十七士」にも論議があり、もともと寺坂は武士ではなく「足軽」の身分であったためカウントされていないという説もある。

年末の時代劇には忠臣蔵、もしくはそれを題材にしたものがテレビとして放送、あるいは映画として上映されることがある。こういった時期だからでこそ、史実の「忠臣蔵」もとい「赤穂事件」はどのような出来事なのか知っておく必要がある。そのことで忠臣蔵をより深く、面白く見ることができるようになる。