今でこそ「学習院」は幼稚園から大学に至るまでの網羅している学校法人の一つとしてあり、有名な私学の一つとして挙げられる。学校法人となったのは戦後に入ってからのことであり、それ以前は旧宮内省の管轄のなかでできた国立学校であった。戦前の学習院は「華族の学校」として、そして軍高官の通う学校としてあった。その旧宮内省の管轄だった学習院はどのような変遷を辿っていったのか、そのことについて取り上げている。
第一章「華族の学校」
もともと学習院が作られたのは江戸時代後期で、幕末に入る少し前の時のことである。場所は当時京都御所にあり、公家たちが学場として受講をしたという。やがて大政奉還となり、江戸時代が終焉し、近代を迎えた1877年に「華族学校学則」ができ、なおかつ東京の神田錦町にて国立学校として開業した。
第二章「特権と差別」
とはいえ学習院の生徒は華族ばかりでなく非華族も通っていた。しかし華族と非華族の割合は年によって異なるのだが、だいたい1:2(非華族:華族)の割合だった。そのなかでの差別もあったという。他にも学習院ならではの「特権」もあった。
第三章「華族女学校誕生と下田歌子」
当時の学習院は男子が多くいたことから男子中心になっているのではないかという懸念があった。そこで四谷区尾張町(現在の中央区銀座)に華族女学校ができた。現在の学習院女子中・高等科である。
第四章「非華族たちの反発」
非華族のなかで学習院に在籍した人物のなかには歴史的に名を連ねた人物もいた。東条英機もまたその一人であり(中退)、三島由紀夫や志賀直哉もまた学習院に通ったのだが、そのなかでの反発を取り上げている。
第五章「院長としての乃木将軍」
本章のタイトルの乃木将軍は言うまでもなく乃木希典陸軍大将であり、1907~12年までの5年間学習院長を務めた。その時に昭和天皇が入学し、養育を行った。昭和天皇の生涯の評伝・自伝のなかでの証言で人格形成の多くを乃木希典の影響を受けたことを度々挙げられたほどである。
第六章「軍と学習院」
第四・五章を取り上げていくと分かるのだが、軍と学習院との関わりは深い。軍関係者も学習院に入学した人もいれば、前章の乃木希典のように学習院長を務めた軍人も数人いる。
第七章「激動期から敗戦へ」
戦前から大東亜戦争の激動の時代を経て、敗戦を迎えることとなった。その後のGHQと関わっていくこととなるのだが、学習院もGHQによって廃止するかどうかの瀬戸際に立たされた。
第八章「新時代へ」
官制廃止となり、廃止の危機に見舞われたが民営化し「学校法人学習院」として新たなスタートを切り、新時代を迎えることとなった。
幕末前から存在した学習院の歴史だったのだが、もっともその歴史にさらされてきたのは明治から大東亜戦争までの時であったことは間違いない。また民営化した今もなお、皇室御用達の学校として知られており、今もその伝統を受け継がれている。
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