山本直純と小澤征爾

本書のタイトルの2人はともに斎藤秀雄に師事し、同じ指揮教室に同期で通い、そこから同じ指揮者として大成していくのかと思いきや、方や世界的な指揮者になったが、方や日本に残りテレビや映画音楽に貢献した。

その2人の関係性と相違点、そしてその人生の歩みについて取り上げているのが本書である。

第一章「齋藤秀雄指揮教室(1932~1958)」
山本直純が生誕したのは1932年、小澤征爾が生誕したのは1935年のことである。山本は作曲者や指揮者が親族にいるなどの音楽一家のなかで生まれた。一方小澤は歯科医師の子として生まれた。歯科医師であると同時に民族主義者であり、満州事変の実施者であった板垣征四郎と石原完爾との親交があり、そもそも「征爾」の名も2人からとっている。
その2人が齋藤秀雄指揮教室に通い始めたのは大東亜戦争が終戦して数年経った1951年のことである。共に高校生だったのだが、その後別々の短大・音楽大学へ進学した。

第二章「大きいことはいいことだ(1959~1970)」
小澤は短大卒業後、地方の交響楽団の指揮を行った後に渡欧した。帰国後に「N響小澤事件」が起こり、再び海外へと渡った。一方の山本は大学在学中に眼の病気を患ったことにより、元々夢だった世界的な指揮者の夢を断念した。このときにテレビや映画の分野に進出し、音楽の底辺を広げていくことに尽力した。

第三章「オーケストラがやってきた(1971~1972)」
山本の音楽活動のなかで大きなものの一つとして1973年から放送された「オーケストラがやってきた」という番組である。自ら司会・音楽監督としてクラシック音楽を取り扱う番組としてつくられ、クラシック音楽普及に貢献した番組として挙げられる。その頃小澤は再度日本に戻り山本と共に新日本フィルハーモニー交響楽団を創立した。

第四章「天・地・人(1973~1982)」
小澤は1973年にボストン交響楽団の音楽監督となり、「世界のオザワ」としてスターダムに立つこととなった。一方の山本は先述の番組の出演と音楽製作を続けていったのだが、1978年に交通違反スキャンダルを起こしてしまい、人気が地に落ちてしまった。小澤は「天」で山本は「地」となる様相だった。

第五章「1万人の第九とサイトウ・キネン(1983~2001)」
その後山本は音楽活動及び番組出演に復帰し、先述の番組は1983年に終了することとなった。山本は大阪城ホールのこけら落としとともに、現在も続いている「1万人の第九」を企画してスタートさせた。一方の小澤はその翌年の1984年に斎藤秀雄メモリアルコンサートを開いた。開いた人物としては小澤の他に齋藤秀雄指揮教室の同期生の一人だった秋山和慶もいた。

第六章「鎮魂のファンファーレ(2002)」
山本は精力的に活動を続けたのだが、2002年急性心不全のため逝去した。同じ年で奇遇なのか不明だが、小澤は同年の1月1日に日本人として初めてウィーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮を務めた。その後は病に倒れることを繰り返しながらも活動を続けている。

本書の帯に「『埋もれた天才』と『世界の巨匠』」と書かれている。前者は山本のことを、後者は小澤のことを指しているのだが、小澤は山本のことを自分よりも上と賞賛し続けていた。道は違えど、日本のクラシック界を切り拓いていった人物。その2人の足跡がここにある。

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