バッシング論

多くのメディアでは政治・経済・社会などありとあらゆる「バッシング」を起こしている。ここ最近ではそのバッシングは強くなっているように見えるのだが、もっともメディア自体「バッシング」から切っても切れないものである。もっともメディアは「議論」のきっかけを作ることだったにもかかわらず、特定の思想や論調ばかりに偏ってしまい、異論とするだけでも排除される風潮も見られる。

メディアばかりではない。そのメディアに踊らされる私たちもまた、異論を持とうとするとバッシングという名の「排除」をしようとしてしまう。なぜバッシングが起こるのか、そのことについて取り上げているのが本書である。

一.「「善意」がテロを呼ぶ――バッシング論」
不祥事やニュースについての疑惑がメディアにとって格好の材料としてあるのだが、その材料についての両輪の議論がないように、ここ最近の新聞・雑誌・ネットなどを見ても感じてしまう。もっと言うと政治のみならず、芸能・スポーツの世界ではちょっとしたことでメガホンの如く大きく取り上げ、事を荒立てるような風潮もある。

二.「「辞書」を失った現代人――情報化社会論」
またテレビ・雑誌・本の他にもインターネットによるメディアもあり、情報化がますます進んでいくなかで濁流の如く情報が飛び交う。そのような社会のなかで「新しい」ことを「良い」と見出してしまい、元々ある意味の忘れてしまう。著者はこれを、

「辞書的基底を喪失した社会」(p.57より)

と定義している。「辞書的基底」はそもそも辞書を引いたなかでの根本的な意味や考え方を表している。確かにそうかもしれないのだが、もっとも辞書も「広辞苑」のように10年に1度など一定のサイクルでもって改訂されるため、辞書もまた時流・情報によって変化をしているのではないかとも考えてしまう。

三.「「大きな物語」は危うい――ロマン主義論」
政治思想にはいくつか有名な学説があるのだが、本章で出てくるのがカール・マルクスの「マルクス主義」、もう一つがカール・シュミットの「ロマン主義」である。なかでも本章ではロマン主義のあり方について取り上げると共に、忖度などの小手先のモノで語られるのではなく、大きな物語を持つことの必要性を説いている。

四.「「流行」が国家を潰す――西郷隆盛論」
2018年に大河ドラマで放送された「西郷どん」がある。元々は林真理子の「西郷どん!」を原作にしたものであり、放送された時には「明治維新150年」の節目であった。その西郷隆盛の思想と今の国家について比較を行っているのが本章である。

五.「「おことば」が象徴したもの――ポピュリズム論」
2016年8月におことば(象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば)が世間を賑わせた。もっとも捉え方についても思想によって多岐にわたるのだが、主に3つの種類があったという。

六.「「言論空間」が荒廃してゆく――保守主義論」
元々雑誌などのメディアは「言論空間」として思想のなかで社会はどうあるべきかの議論を起こす場所としてもある。しかしながらその言論空間が荒廃していくさまがあると著者は指摘している。その一つとして「新潮45」がLGBTのことにまつわる論文が引き金となり、休刊に追い込まれた話がある。

七.「「フクシマ」と「オキナワ」は同じではない――民族感情論」
右左の議論のなかで特に大きな物事として本章のタイトルにある「フクシマ」と「オキナワ」である。同じように重ねる議論もあるのだが、著者は「同じではない」と主張している。

八.「「否定」という病が議論を殺す――国家像論」
批判をするのだが、その批判の中には「否定」しか出さないような議論もある。もっとも議論というと賛否もあれば、なかには代案と言ったものもある。特にここ最近では代案どころか物事について「オール・オア・ナッシング」といったハッキリとした善悪しかないような議論ばかりがはびこっており、それが議論を殺してしまう温床となると指摘している。

パッシングは今も昔も存在するのだが、ここ最近では善悪やオールオアナッシングといった議論ばかりであり、本当の意味での「議論」の体を成していないとしている。もっとも本や新聞・雑誌を読んでいる私でさえもそう思えてならない。もっともそこから脱して本来ある「議論」を復活するためには社会そのものを変えるため容易ではないこともまた事実として在ることを考えてしまう一冊であった。