時計台のある東京大学の駒場Ⅰキャンパスには「矢内原公園」があり、かつては矢内原門があり、その門があったことの石碑が今もなお存在する。その「矢内原」こそ、本書で紹介する矢内原忠雄である。東京帝大(現:東大)の政治学科卒業後、就職を経て、東京帝大に戻り、学名が東大になってからもずっと教授として教鞭を執り続け、戦後には大学の学長にあたる「総長」にまで登り詰めた。
しかしながら研究や主張によっては物議を醸し、さらには事件となるなどにまで発展した。当時における日本の背景とともに戦い続けた知識人とも言えるのだが、他にもキリスト教者としてキリスト教を深め広めていくことにも尽力した。その矢内原忠雄の生涯について追ったのが本書である。
第一章「無教会キリスト者の誕生―1910年代」
矢内原忠雄は1893年、愛媛県今治市にて誕生し、父の教育方針に伴い神戸へと移り、東京帝大へと進学していった。大学に進学する前の高校時代に内村鑑三主宰の「聖書研究会」に入門したのだが、その時が1911年。無教会キリスト者の誕生と言われている。
第二章「植民政策学者の理想―1920~37年」
東京帝大では「民本主義」と「植民政策学」の2つの考え方を深めていった。特に校舎については国際連盟の事務次長となった新渡戸稲造の影響を受けた。また東京帝大の教鞭に立ちはじめたのも、ちょうど新渡戸稲造が先述の役職に就任してからのことである。もっとも植民政策学の研究自体が新渡戸稲造から影響を受けたせいか色濃く受け継がれており、1929年に「帝国主義下の台湾」が上梓された。ちなみにこの本は軍国主義化しつつある中で販売禁止処分を受けたことあから政治と矢内の関係は緊張化していった。
第三章「東京帝大教授の伝道―1930年代の危機と召命」
この緊張関係や政治だけでなく、帝大内部でも排撃の大賞とされてきた。その頂点に達したのは次章にて述べる「矢内原忠雄事件」である。帝大でも浮いた存在となってしまったが、内村鑑三や新渡戸稲造の教えを受け継ぐために聖書研究会を設立したり、様々な講演、集会を行うなど活動の幅を広めていった。
第四章「戦争の時代と非戦の預言者―1937~45年」
1937年、盧溝橋事件の直後に雑誌「中央公論」にて「国民の理想」という名の評論を発表した。その評論は正義にまつわることであるのだが、この評論自体が物議を醸し、さらに矢内排撃の槍玉として度々挙げられることとなり、ついに東大教授を辞任することとなった。その後も聖書研究会を開き、キリスト教を精力的に教えていった。
第五章「キリスト教知識人の戦後啓蒙―1945~61年」
戦後になって対立が解かれ、帝大教授に復帰した。学名も東大に変わり、学部長を経て、1951~57年の6年間、東大総長に就任した。その時でもまたキリスト教を広めることに積極的であった一方で、大学と警察、さらには学生と大学当局との対立が深まっていった。前者の対立は東大ポポロ事件として、後者は矢内の死後に起こった大学紛争として如実に表れた。
キリスト教者で知識人と呼ばれている人はそれ程多くなく、有名どころでは内村鑑三あたりになる。しかしながらその内村鑑三や新渡戸稲造の薫陶を受け、キリスト教を広め、さらには東大総長にまで登り詰めていった人の足跡がここにあった。
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