本当の武士道とは何か 日本人の理想と倫理

「武士道」と言うと、新渡戸稲造の英語で出版した同名の著書が有名であるのだが、本書はあくまでよく言われた「武士道」の在り方について、よくある意味と日本における浸透について書かれている。しかし本書で取り上げる「武士道」とは、理念や道徳としての武士道と言うよりも、武士における「現場としての考え方」と言う意味合いでの武士道ということを意味しており、定義を行っている。

第一章「「本当の武士道」とは何か―脇差心と死に狂い」
「脇差心(わきざしごころ)」とはいったい何なのかと言うと、

「武士は、何か身に迫る問題に直面した瞬間に、刀を抜き、人を斬る覚悟を持っていなければいけない」(p.20より)

とある。もっとも武士というと脇の所に刀があるのだが、その身に迫るときにはその刀で人を斬ることを厭わずに行うことを表している。その覚悟の表れが「脇差心」とある。そのため死と隣り合わせの部分も色濃くあるため、死に狂いと言う言葉があるという。

第二章「「道」の思想と日本人の哲学―同一性と精神性」
そもそも武士道にはなぜ「道」があるのか。それは武士道としての哲学と言うよりも、武士としてどのように生きていくかという精神を持っているためであるという。そのため「哲学」というと西欧の印象があるのだが、日本独自の「哲学」として「道」の思想を築いており、それが「武士道」になり得ている。

第三章「「最強の武士」になるための奥義―やさしさと強さは一つである」
武士において「最強」とはどのようなことを指すのだろうか、定義自体は様々である。ある人は武士としての刀を使う技術が達人であること。あるいは教養もあり、武道を極める、いわゆる「文武両道」を持っている人。あるいは弱気を助け、強きをくじく人と言ったものがあるのだが、本章ではその中でも最後の部分とそこに強さとが通じているものがある問いう。

第四章「『朝倉宗滴話記』の思想―「手の外なる大将」の嘘と真実」
朝倉宗滴は室町時代中期から戦国時代に活躍した人物であるのだが、越前国の朝倉氏を3代続けて補佐した参謀と呼ばれる武士であった。その朝倉宗滴の家臣が宗滴の行動・思想について、本章のタイトルである「朝倉宗滴話記」としてしたためた。その中にあるのが武士としてのあり方、そして朝倉家の家訓などが盛り込まれているのだが、この中にある武士道とは何なのかを説いている。

第五章「武士道の敵は司馬遼太郎―「功利」「損得哲学」の行き着く先」
司馬遼太郎と言えば、数多くの歴史小説を世に送り出し、膨大な資料を基に小説を創作したとされている。しかしながらその「創作」であるが故に司馬自身の歴史観、通称「司馬史観」なるものも小説の中に入っており、歴史学でも影響を少なからず与えている。本章ではその司馬史観を批判している。

第六章「日本人が本当に望み、理想とした生き方―皇室とサザエさん」
では本当の意味としてある「武士道」を通して、日本人はどのように生きるべきかを説いている。その中で皇室のあり方や、在りし日の日本のモデルとしての「サザエさん」を引き合いに出している。

武士道は冒頭にもあるように新渡戸稲造が元々英語版として出てきたことが始まりのように言われているのだが、実際は武士がいた時代にて持っていた魂や考え方である。ただそれを文字としてしたためている史料がそれほどなく、第四章である「朝倉宗滴話記」もその一つである。武士道のあり方は完全に定義することは難しいかも知れないのだが、もっともそれは武士がいた時代にそれぞれ違う形で持っていたのかも知れない。