太閤検地-秀吉が目指した国のかたち

豊臣秀吉が「太閤」になってから盛んに行われた検地であるが、検地はいったい何なのかと言うと、

「豊臣・徳川政権下で、村内の田畑・屋敷を一筆ごとに間竿(けんざお)・間縄などを用いて測量し、段別(たんべつ)・品位・石高・名請(なうけ)人を定める、土地の基本調査。さおいれ。なわうち。地検。」「広辞苑 第七版」より)

とある。実際には太閤の時代以前にも明智光秀を討った山城の戦い後から、秀吉が逝去するまで毎年のように行われていたため、実際には「秀吉検地」と行った方が正しいかも知れない。
それはさておき、「検地」自体は秀吉特有のものではなく、他の大名も行われ広辞苑にもあるように江戸時代においても行われていた。本書はそのうち最も有名な太閤検地を基軸にして、どのような検地が行われ、検地を通してどのような国を目指していたかを取り上げている。

第一章「織田政権下の羽柴領検地」
元々豊臣秀吉が「木下藤吉郎」と呼ばれていた時代から検地は行われていた。信長の指示で行われていて、実務的に検地も実施していた。その実務的な経験から検地の重要性を学び、羽柴秀吉の際にも羽柴領にて検地を行ってきたが、その記録を取り上げている。

第二章「「政権」としての基盤整備」
本格的に検地に乗り出したのは冒頭にもある通り、山城の戦いが行われてからの事である。実際に統治したところから検地が行われ、天下統一を果たし、太閤になるまでの間の所を取り上げている。

第三章「国内統一と検地」
秀吉は検地と共に、天下統一に向けて各領国への侵攻も並行して行われた。九州・四国へと領地を広げ、正確な値などを知るために検地を行ってきた。もちろんその検地の在り方でも紛争が起こるなど「つづがなく」というわけにはいかなかった。

第四章「大名領検地と諸相」
秀吉の太閤検地に限らず、諸国の大名でも検地は行われていた。ではそれぞれの大名ではどのような検地が行われていたのかについて取り上げている。

第五章「「御前帳」「郡図」の調製」
「太閤検地」の出来事の象徴としては検地を通じて、上納をする基準となる「御前帳」を作成したこと、その御前帳をもとにして石高などの関係を図にして表した「郡図」がつくられ、石高の上納の際、効率よく徴収できるようにし、全国の石高の情報が全て秀吉の手に渡るようになった。

第六章「政権下の「在所」と「唐入り」」
検地を通して、秀吉と各大名との石高と上納における在所の在り方も再編成された。またこの再編成により、人の配置などにも影響を及ぼし、国によっては明国を制服するための人員(「唐入り」という)を集める際にも使われた。

第七章「文禄検地の諸相」
秀吉は世界的にも侵攻を行うようになった。それが「文禄・慶長の役」という2つの役が起こった。もっとも文禄の役にて前章にて取り上げた唐入りが終わった時期でもあった。しかしながら文禄の時代においても検地は行われており、どこで行われてきたかを取り上げている。

第八章「政権末期の慶長検地」
また大陸への侵攻も2度目として慶長の役が行われ、国力把握のために検地は続けられたが、秀吉逝去に伴い、その両方が終わりを迎えることとなった。

「太閤検地」と言う言葉はよく聞くが、具体的に検地とは何か、そしてどこで、どのような検地を行ってきたのかはなかなか分からなかった。本書は検地を行った史料をもとにして、「太閤検地」の方法や歴史的な意義を証明している一冊と言える。