ラストアイヌ 反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像

アイヌ文化は内地と呼ばれる本州とは一線を画して独特の文化を育んでいった。最近では「ゴールデンカムイ」など多くの作品にてアイヌ文化が取り上げられ、認知が広がりつつある。

しかしアイヌはかつて「迫害」と呼ばれる歴史を辿ってきており、その度に抵抗をおこなってきた。有名どころとしては1669年に起きた「シャクシャインの戦い」や1789年に起きた「クナシリ・メナシの戦い」がある。明治になってからは続々と内地から開拓民としてなだれ込み、アイヌ独特の伝統や文化も制限・禁止されたという歴史がある。その風潮に反旗を翻した歌人として本書にて取り上げる森竹竹市がいる。その森竹の生涯はまさにアイヌ文化の復興と同化政策への抵抗にあった。その生涯を追ったのが本書である。

第1章「少年の肩」
森竹が生誕したのは白老という場所で、現在の白老町である。白老町と言えば今年、博物館や公園などの施設群である「民族共生象徴空間」、通称「ウポポイ」が7月12日に開業する場所としても知られている。
森竹の生涯の話に戻す。白老に生まれたが、幼いころに父が亡くなり、過程は窮乏し、9歳で漁場で働きながら小学校に通うというような日々を送った。その後郵便局員として働きながら勉学に励み、1923年に鉄道局員の採用試験に合格した。

第2章「鉄道員」
採用試験合格後は鉄道局員として働き、様々な場所で赴いた。その中でも様々な人との黄龍があった。本章では同じアイヌ歌人となるバチェラー八重子や違星北斗とのエピソードも言及している。森竹と共に「アイヌ三大歌人」となり、歌人の立場としてアイヌ文化の復興への思いを強くしていった。

第3章「若きウタリに」

「見世物扱ひを中止せよ」(p.115より)

これは1934年の3月に小樽新聞にて森竹自ら投稿した記事のタイトルである。それは連合艦隊が室蘭入港に対しての抵抗の意を見せたところ、そしてその入港に対して民俗舞踊などの催しに対して「見世物扱いされた」として反発したものであった。鉄道局員の時にアイヌに対する扱いに対して民俗奮起を起こすといった話をしていたが、周囲の反応は冷ややかで、何の反応もなかった。その反応がなかったことに反発し、鉄道局員も退職し、漁師や食堂経営をする傍らアイヌ文化の再興に尽力した。

第4章「『原始林』」
アイヌ詩集の中で有名なところとして1937年に自費出版した「若きアイヌの詩集・原始林」がある。その「原始林」の詩集にはどのような込められているのかを取り上げている。その中はアイヌにまつわること、そして自らの身の回りに関することが中心だった。

第5章「アイヌを生きる」
やがて時代は昭和へと移り、日中戦争(支那事変)から大東亜戦争へと迎えるようになった。その時アイヌ民族は内地と同じく「皇軍の兵士」として組み入れられたが、森竹はそのことについても抵抗を覚えた。しかしこのときは統制社会となっており、沈黙せざるを得なかった。しかし戦後になってからは「北海道アイヌ協会(後に「北海道ウタリ協会」と改称し、今年先述の名前に戻した)」の設立に尽力した。

第6章「レラコラチ―風のように」
「レラコラチ」の意味は本章のサブタイトルそのものである。「レラ」が「風」を意味しており、「コラチ」は「~のように」を意味している。
森竹はアイヌとしての矜持を持ち、最後の純粋なアイヌ民族、「ラストアイヌ」としての誇りを持ち、アイヌ文化の再興と、これまで迫害されてきた風潮への抵抗を行ってきた。その人生はあたかも「レラコラチ」、その言葉を体現したかのようであった。

昨今アイヌ文化への認知は高まりつつあるのだが、アイヌへの補償の声も後を絶たない。日本人は「共生」をもって多くの文化・民俗を受け入れるのだが、こういった状況はアイヌに限らず、琉球などでも起こっている。そして今ある文化の認知は森竹がもし存命であればどのように見えるのだろうか、また「見世物扱いするな!」と言うのだろうか。