東京オリンピックは当初今月24日から開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響により、1年延期し2021年に開催される予定である。あくまで「予定」であり、確定ではない。新型コロナウイルスの影響がどこまで続くかによって、中止になる、あるいは再延期と言ったことも考えられるため、どうなるかわからないのが現状にある。
そういった状況の中で、本書を取り上げるのはどうかと思うのだが、そもそも開催の気運が高まったときに出てきたもののため、もしオリンピックが今後行われるとなったときに見た方が良いかもしれない。そもそも五輪スタッフを「ボランティア」として集めるといったのはなぜなのか、そしてボランティアはなぜ「搾取」されるのか、そのことについて取り上げているのが本書である。
第1章「10万人以上のボランティアをタダで使役」
「ボランティア」であるため、報酬は得られない。報酬を得るとなるとある種「アルバイト」と言うような形態になる。しかもその「ボランティア」を10万人集めるという動きだったという。実は五輪ボランティアは東京オリンピック特有のものではなく、1964年の東京オリンピックでは約14400人、1998年の長野オリンピックでは約22000人集めたという。
第2章「史上空前の商業イベント」
元々オリンピックは「公益事業」だったのだが、いつしか商業イベントに発展して行った。そのきっかけが1984年のロサンゼルスオリンピックである。なぜ商業化が行われたかについても事情があり、それまでのオリンピックは税金で「全て」まかなわれ、なおかつ赤字続きだった。そもそも税金を全てまかなってしまうことにより、政治的介入が行われ「平和の祭典」が、「政治的主張の祭典」となった。毛並みは違うものの一例として1936年のベルリンオリンピックがある。通称「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれたように。
しかしロサンゼルスオリンピック以降、商業イベントとしての金額が膨らんできており、さらには税金も入ってくるようになった。東京オリンピックは当初の試算では約7300億円の予算であったにもかかわらず、後に3兆円を超えるものに改められた。
第3章「ボランティアの定義と相容れない東京五輪」
そもそも「ボランディア」とは、
「志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人。また、その無償の社会活動」(「広辞苑 第七版」より)
とある。それに対して著者は、
「「ボランティア」とは英語で「志願兵」という意味であり、自ら志願することを意味しているが、無償という意味ではない。人ではボランティアというとほぼ無償活動と受け取られるが、それは間違っている」(p.86より)
と主張している。もっとも「ボランティア」は自らの意志で参加するものであり、報酬の有無は関係ない。とはいえど、あくまで自分の意志で参加するものであるため、報酬があるのは当たり前というわけではなく、なおかつ無償であることが当たり前でもない。ましてや報酬にしても交通費や食費、または宿泊費といったいくらかの「謝礼」ほどであるため、生活できるまでも報酬ともなると、それは「ボランティア」ではなく、ただの「事業」や「労働」となる。
なお本章ではボランティアと商業イベントとの関連性と、カネの構造についての公開質問のやりとりを取り上げている。
第4章「東京五輪、搾取の構造」
これは2018年3月下旬にボランティア募集にて取り上げられた際にメディアにて「やりがい搾取」と批判があったのだが、そのこと及び、JOCらによるボランティアの搾取について取り上げている。
第5章「なぜやりがい搾取が報道されないのか」
そもそも既存メディアは五輪に対する批判的な報道はあり、主要紙でもいくつか取り上げているため、「報道されない」と言うわけではない。ただ取り上げているのは確認する限りでは朝日新聞・毎日新聞・東京新聞あたりしかなく、朝日・毎日はほとんど取り上げていない現状にある。やりがい搾取だけでなく五輪とカネの構造について深掘りしているのも東京新聞以外一切やっていないと批判している。
第6章「問題を伝え続けること」
問題を伝え続けたことについて著者自身がTwitterにて投稿したこと、そしてその返答や対応などについて取り上げている。
昨今のオリンピックは「商業イベント」に発展していることは事実である。しかしながらロサンゼルスオリンピック前までは全て国の税金でまかなわれた対策としてある。ちなみにオリンピックボランティアは今回の東京オリンピックに限らず、1964年のオリンピック、それ以前からも行われた(一般ボランティアは1948年のロンドンオリンピックから)。なぜ無償の歴史が続いたのかについて、IOCに公開質問状を出して、詰問して欲しかった部分がある。とはいえ、オリンピックボランティアの闇をえぐり出したと言えば画期的な一冊である。
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