梅棹忠夫の「日本人の宗教」

梅棹忠夫と言えば、民族学者である一方「知的生産の技術」と呼ばれる名著を残し、情報整理法について大きな足跡を残した。特に今も扱われている「京大式カード」は梅棹が広めたとも言われている。民族学や情報学における「フィールドワーク」を使う際に扱われたのだが、私自身も大学受験や大学での研究の中でどれだけ使ったか分からないくらい、お世話になったことを覚えている。

その梅棹忠夫は今年生誕100年を迎える。多くの著作を生み出した中で、本書はあまり知られていない日本人の宗教について取り上げている。しかしこの「日本人の宗教」は本書の出版である淡交社では全集で次々と発表していく中で唯一刊行されなかった。本書はなぜ「日本人の宗教」が長年刊行されなかったのか、そして「日本人の宗教」の中身とは何かについて取り上げている。

第1章「幻の著書『日本人の宗教』を追跡する」

実を言うと、梅棹における「日本人の宗教」は論文として刊行されていない。詳細に言うと、研究こそは進められていたのだが、ついに論文として世に出ることはなかった。では何のための本書なのかという疑問がわいてくるのだが、本章の追跡と、見つけられた比較文明から「宗教」をどのようにして結びつけられたのか、という議論を行ってきた中で宗教論に発展しようとしたのだが、道半ばで叶わなかったと言うものである。本章では宗教における研究資料がどのようなものだったのかを見つけ、取り上げている。

第2章「宗教の比較文明論」

本書は宗教学ではなく、「比較宗教論」として日本人の宗教はどうであるのかを考察を行っている。もっとも詳細に言うと、自らの宗教生活はもちろん、諸外国との文化や宗教について比較を行った、比較文明論や比較宗教論と言った分野にまで考察が及んでいる。

第3章「民族学者の発想「宗教について」」

本書は1986年にモンゴルでのフィールドワークを終えた直後、原因不明の病気により、両目を失明してしまった。その時に収録した対談であり、対談の相手は急性四肢麻痺に冒され、同じく入院していた文化人類学者の中牧弘允だった。言うまでもないが対談の舞台は病院。病床の中で宗教はどのようなものなのか、という議論を行ったのだから研究も含め、知的好奇心が旺盛だったことが窺える。

冒頭でも書いたのだが、知的生産や情報収集、さらには民族学としてのイメージの強い梅棹忠夫が、宗教について考察を行ったのは本書にて初めて知った。とはいえど民族学における考察の中に、宗教の要素が入っていたことは事実としてあるのだが、本格的に宗教について論じたのは本書が初めてである。しかしながら本格的に論文として表しているものが存在しなかったのだが、宗教について考察を行った足跡があった事、それを本書にて示していると言っても過言ではない。