今年で大東亜戦争が終結してちょうど75年を迎える。戦争の怖さについて語ることのできる方々も少なくなり、恐ろしさを知るとなると、当時の映像や書物だけとなると、悲しいものである。
本書は大東亜戦争において特に後期に起こったペリリュー島の戦い、通称「ペリリュー玉砕」と、その戦いを指揮した中川州男(なかがわくにお)の生涯を取り上げている。
第一章「頑固だが純粋な「肥後もっこす」」
中川は1898年、熊本県に生まれた。父親は薩摩の戦士として西南戦争に参加し、後に小学校校長も勤められた。小さい頃の中川は熊本県民ならではの「肥後もっこす」を体現したという。「もっこす」は熊本弁で、他の地域では津軽では「じょっぱり」、土佐では「いごっそう」、北海道では「ごうじょっぱり」と呼ばれている。つまりは「頑固者」であるのだが、他にも「純粋」という言葉も当てはまる。
第二章「閑職からの復帰」
中川は陸軍士官学校を卒業し、連隊に入隊した。しかしながら、士官学校卒業後からは閑職の連続だった。その背景とした当時の加藤内閣における陸軍大臣の宇垣一成が行った「宇垣軍縮」の煽りを受けて配属将校へと移ることとなった。「配属将校」はよく言う「閑職」であり、実践がほとんどなかった中隊長や大隊長へと転々することもあった。しかし日中戦争の勃発により、状況が変わり、閑職から復帰することとなった。その時に連隊長からの推薦により、陸軍のエリート学校である「陸軍大学校」へ進学することとなった。
第三章「満洲から南洋へ」
陸軍大学校の専科を卒業した後に、満洲における旅団の参謀を経ていき、日中戦争から、大東亜戦争へと移っていく。旅団から連隊長へと昇進していく中、ペリリュー島の戦いへと赴くこととなった。
第四章「住民への退避を指示」
パラオ諸島の南西部に位置するペリリュー島に赴き、戦場になることを確信した中川は現地住民への避難を指示していった。アメリカ軍の戦いへの準備も着々と進めていく中で、現地住民との関わりを本章にて取り上げている。
第五章「アメリカ軍上陸」
アメリカ軍が上陸し、戦いが始まった。元々日本軍はゲリラ戦法だった。住民への避難と同時に、洞窟陣地をいくつもつくったことが要因としている。一方アメリカ軍は陸海空全てから、圧倒的な火力で戦うといったものだった。当初アメリカ軍は2~3日で片付くとにらんでいたのだが、先述の通りゲリラ戦での抵抗、さらには天候不順もあり、2ヶ月以上の死闘になった。
第六章「玉砕」
ゲリラ戦法を用いて、アメリカにも損害をもたらしたのだが、戦力の差は埋められず、玉砕をすることとなり、中川自らも自決した。本書の帯にも書いてある通り、1万以上いた兵士のほとんどは戦死し、生き残ったのはわずか34人だった。ちなみにこのペリリュー島の戦いでは昭和天皇からの御嘉尚、つまりお褒めの言葉が11回もあった。
第七章「それぞれの八月十五日」
生き残った兵士たちもまた地獄を見ながら、終戦を迎えることとなった。その後もペリリュー島で抵抗を続け、昭和22年に帰順することとなった。
ペリリュー島の戦いは後の硫黄島戦や沖縄戦の布石になった。また戦後、パラオと日本との関係は良好なものがあったが、ペリリュー島の戦い前後における日本と現地民との関わりがそうさせていた。ただ、悲しい戦いであった事は事実としてあり、本書の様に後世へと語り継いでいくことが私たちの使命である。
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