マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇

昨日取り上げた評伝は生涯をもとにした合理性や官僚制が中心となったのだが、本日取り上げる本書は評伝の中でもサブタイトルにある「主体的人間」といった所が中心となる。またもう一つの要素としては「闘争」と言ったものが挙げられる。「主体的人間」と「闘争」、この2つの要素は生涯の中でどのようにして形成付けていったのか、本書は生涯をもとにして追っている。

第一章「主体的人間への成長 一八六四‐一八九二年」

ヴェーバーの少年から青年期にかけての成長であるのだが、ここで言う所の「成長」とは身体的な成長と精神的な成長である。後者の精神的な成長については昨日取り上げた本でもほぼ同様に取り上げているのだが、異なるのは前者の身体的成長にある。昨日の所では「酒と喧嘩に明け暮れた」と記載しているのだが、喧嘩の決闘や剣術を鍛えており、肉体的な成長をしており、なおかつ大学に学んでいる途中に1年間兵役に就いていたのだが、その中での鍛錬の日々について克明に記している。

第二章「社会ダーウィニズムへの傾倒 一八九二‐一九〇四年」

本章では主に博士号を取得し、教授となったとき、フライブルク大学にて教授に就任したが、その就任講演の中で述べられた内容について言及している。その中で特に「社会ダーウィン主義」を引き合いに出し、社会と人間における自然淘汰を主張したのだが賛否両論が巻き起こった。

第三章「ドイツ社会への苛立ち 一九〇四‐一九一四年」

一時病気にかかり、復帰した後にアメリカへ訪問をする機会があったのだが、その時からドイツ人、そしてドイツ社会を外から見ることができるようになった。と同時にとある「苛立ち」を覚えるようになったと言う。それは人種や宗教に関する考え方など多岐にわたり、ヴェーバーの中にある「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(通称:プロ倫)」として形成付けていった。

第四章「ドイツの名誉のための闘い 一九一四‐一九二〇年」

ヴェーバーの晩年はドイツの名誉をかけた戦いに傾倒した。しかしながら武器と言うよりもむしろ国家に関しての研究や議論における論争が中心だった。と同時に、昨日の本の中でも言及されていたのだが、第一次世界大戦が起こる、それ以前に暴動がドイツ全土にて巻き起こったことにヴェーバーは呆然とした。国家に関する理論とドイツの名誉といった理論における「闘争」を行っていったが第一次世界大戦後の1920年、スペイン風邪で帰らぬ人となった。

本書と昨日取り上げた同書は同じ時期に出版された。「奇しくも」と言うべきか、ヴェーバー没後100年を記念して両社が結託して出版したか、HPでも両方の本を宣伝しているところを見ると後者と言えるかもしれない。ヴェーバーにおける功績は今日の国家や政治などにも大きな影響を及ぼしている。その足跡と思想の側面を追うことができる良い機会が本書をはじめとした評伝と言える。