「六波羅探題」とは、
鎌倉幕府の職名。承久の乱後,京都の政情を監察しかつ治安を維持するために設置した,政務・軍事を統轄する執政官。南北二名を定員とし,西国諸国の訴訟を聴断するとともに,有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた。六波羅守護。六波羅殿。「大辞林 第四版」より
とある。日本で言う所では役割としては高裁、人的なポジションとしては与党の幹事長か、もしくは内閣の官房長官にあたる所である。とくにポジションの理由としてはこのポストに入っているのは北条氏のみであり、なおかつ中には最高権力者である執権に就いた人物も何人かいるためである。
日本の政治で当てはめてみたのだが、どのような役割があり、なおかつポジションだったのかについては未だに謎が多い。戦前と戦後に渡って研究が行われてきたのだが、その研究の軌跡はどのようなものだったのか、本書ではそのことについて取り上げている。
第一章「戦前の六波羅探題の研究」
戦前ではどのような研究が行われていたのかについて取り上げているが、当時の鎌倉時代における史料はそれ程無く、その中でどのような研究を行い、主張があったのかを挙げている。当時は「六波羅探題」にスポットを当てたと言うよりも、鎌倉時代全体を取り上げている中で六波羅探題の役割はどうであったかが中心となっている。
第二章「戦後の六波羅探題の研究―通説の成立」
戦後になって研究が進むようになり、やっと「六波羅探題」を専門として研究が進められるようになった。その先駆者となったのが歴史学者である佐藤進一である。戦前になるのだが「鎌倉幕府訴訟制度の研究」があり、これが六波羅探題の役割と地位について詳しく言及した初めての論文である。この研究により六波羅探題における通説について成立することとなった。
第三章「通説に対する異論の展開―本格的研究の開始」
その問いに初めて研究したのは裁判所で言う所の簡裁や地裁といった下級裁判の役割と言及したのだが、本章ではその通説に異論を唱える人物が続出した。特に1980年代に入ってからは六波羅探題の役割のみを研究とする研究者も出てきており、史料も増えてきていることから、役割が明確化しつつあり、解釈に関する異論も出てくるようにまでなった。
第四章「その他の六波羅探題研究」
「六波羅探題」の研究は別に役割と言うばかりの話ではない。六波羅探題を中心とした政争はもちろんのこと、六波羅探題を中心に周囲の所ではどのようなポジションを持っていたのか、そのことを言及する論者も出てきた。
「六波羅探題」というと鎌倉幕府における重要なポジションであると同時に、裁判所としての役割を持っていたことは周知の事実としてある。しかし具体的に何を行っており、どのようにして就任していたのか、まだ謎が残っており、なおかつ史料の解釈などを巡っての議論も絶えない。ただそれは六波羅探題に限らず、鎌倉時代における人物・出来事などでの「つきもの」とも言える。
コメント