蒙古襲来と神風 – 中世の対外戦争の真実

2013年にウェブマンガとして「アンゴルモア元寇合戦記」が連載され、今も続いており、2018年にはアニメ化された。このマンガのタイトルにある通り「元寇(げんこう)」と呼ばれるモンゴル帝国(元朝)と日本との戦いを表している。

元々元朝が対外侵略の一つとして日本に2度侵攻するも日本が勝利した。その一部始終と、元寇の中でなびいた「神風」の正体などを取り上げている。

第1章「日宋貿易とクビライの構想」

元々日本と中国大陸(当時は宋王朝)は貿易による交易関係にあった。その一方でモンゴル帝国では、カアン(皇帝)を巡る争いが起こり、そこにクビライが加わっていた。やがてクビライがカアンに即位すると、資源の専売などの経済的な理由などから各地に侵攻するようになった。日本に侵攻したのも当時「硫黄」が生産されていたことにより、それを狙ってのことだという(諸説あり)。

第2章「文永の役の推移」

とはいえ、いきなり侵攻を行ったわけではなく、宋王朝を滅ぼし、モンゴル帝国を主軸とした元王朝として、日本に対し服従する(属国になる)ように使節を何度か送った。しかし時の執権である北条時宗はそれを拒否し、クビライは日本へ侵攻する事を決めた。

最初の侵攻は1274年にあった「文永の役」である。まず元朝と属国であった高麗の連合軍は対馬を経て壱岐、肥前へと侵攻し、占領するも、博多侵攻にては敗れる事となった(赤坂の戦い)。ここが潮目となり、その後の戦い(鳥飼潟の戦いなど)で敗れ続け、撤退を余儀なくされた。しかしその撤退の最中で、暴風雨に遭い、大量の犠牲者を出したとも言われており、こちらが「神風」の一つとされている。

第3章「弘安の役の推移」

その7年後にあたる「弘安の役」では当時の世界最大である約15万人もの軍勢を引き連れ、侵攻したとされた。対馬、壱岐などそれぞれの島に上陸・侵攻するも、いずれの戦いも敗れた。さらに7月に台風が襲来し、元軍では船の沈没、さらには溺死する人が相次いだ。その被害は甚大で最終的に元朝・高麗軍は撤退することとなった。

第4章「竹崎季長の背景」

竹崎季長(たけざき すえなが)は鎌倉の武士でありながら、元寇の大きな史料となっている「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」を描かせたことで知られている。元々竹崎は文永の役・弘安の役両方で戦った人物である。両方の戦いで武功を挙げており、その武功を伝えるために絵詞をつくらせたという。

第5章「『蒙古襲来絵詞』をよむ」

蒙古襲来絵詞は竹崎季長がつくったというよりも「つくらせた」。その作った人物はと言うと今もわかっていない。全2巻の絵巻物であるのだが、元寇はどのようなものだったのかを読み取っている。

第6章「その後の日元関係」

元寇のあとの日本と元朝の関係はどのようになっていたかというと、日本と宋王朝の関係と同じように交易がもたれるようになった。しかしながら元朝、そして鎌倉幕府も共に滅亡の一途を辿ることとなった。

第7章「遺跡からみた蒙古襲来」

元寇、もとい蒙古襲来の足跡は「遺跡」としていくつか点在している。その点在している史跡や遺跡をもとにして、元寇はどのようなものだったのかを取り上げている。

鎌倉時代において歴史的出来事の一つとして「元寇」がある。しかしその元寇の戦いについても、詳細の中で謎な部分があり、まだ解明されていないところも少なくない。本書は今ある史料のなかでどのようなものだったのかを知ることができる一冊と言える。