私自身少し驚いており、元々岩波新書自体、三島由紀夫の思想とは真反対にあるような印象が強かったのだが、その岩波新書に三島由紀夫にまつわる本が上梓されるとは思ってもみなかった。
それはさておき、1970年11月25日に三島事件(「楯の会事件」とも呼ばれる)が起こり、三島由紀夫がクーデターを呼びかけた後、割腹自決を遂げた。この事件から今年でちょうど50年を迎える。
三島由紀夫と言えば、「潮騒」や「金閣寺」「豊饒(ほうじょう)の海」といった名作を残した人物でもある一方で自衛隊に体験入隊し、防衛組織である「楯の会」を結成するなど、政治的な意味合いとしても重要な人物となった。その三島由紀夫の生涯は著者に言わせると「悲劇的」だったという。なぜ「悲劇的」だったのか、生涯をもとに考察を行っている。
第一章「禁欲の楽園―幼少年期」
三島由紀夫は東京の四谷に生まれ育った。その後学習院中等科に入学したが、このときの学習院は本章のタイトルにあるように、厳格な校風であったという。その中で三島は「詩」に目覚め「詩を書く少年」であった。
第二章「乱世に貫く美意識―二十歳前後」
やがて詩から文学へと転身していったのだが、その中で「三島由紀夫」という筆名を名乗るようになった。大東亜戦争が開戦される年の時である。その時から文学としての才覚を発揮し、評価されるようになった。一方の三島は高等部へ進学するも、戦争に巻き込まれることとなった。
第三章「死の領域に残す遺書―二十代、三十一歳まで」
大東亜戦争後から本格的に作家としての活動を行うこととなったが、悲劇が訪れた。妹の美津子が腸チフスにより、17歳で夭折し、恋人を横取りにされ、さらには「戦犯文学者」として批判を受けるようになった。その時に「仮面の告白」をはじめとした「死」といった側面を描く作品を続々と上梓した。
第四章「特殊性を超えて―三十代の活動」
そして「金閣寺」を上梓することで、大きな成功をもたらし、文壇でもスターダムを歩むこととなった。それと同時に、この時期三島はボディビルを始めるようになり、肉体改造を行うようになった。三島は作家として特殊な立場にあるとも言われており、思想的にも対立を起こす、あるいは先述の肉体改造など、文壇では「異端児」扱いもされた。
第五章「文武両道の切っ先―四十代の始末」
やがてその思想は文学作品にも如実に表れるようになった。だんだんと政治思想を色濃くし、さらには冒頭での述べたように自衛隊の体験入隊も経て、「楯の会」を結成。そして三島事件で割腹自決を遂げた。
三島事件から50年経った今でも、政治思想の中では色濃く残っている。また作家としても有名な作品を残しており、ノーベル文学賞の候補にも何度も上がっていた事はよく知られている。三島の足跡は没後50年経った今でも力強く残っている。
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