流言のメディア史

本書は昨年出版されたのだが、今を指し占めたような一冊と言うほかない。というのは言うまでも無いのだが、昨今新型コロナウイルスによるニュースが大量に出ているのだが、その中には流言(デマ)と呼ばれるようなニュースが沢山存在する。なぜ流言は生まれるのか、それを紐解いてみると、そもそもメディアと「流言」自体は長いつき合いにある。そのあらましとこれからについて取り上げているのが本書である。

第1章「メディア・パニック論―「火星人来襲」から始まった?」

今から4年ほど前のアメリカ大統領選でも「フェイクニュース」という批判が相次いだのだが、そもそも「フェイクニュース」の概念は今に始まったことではない。本章では第二次世界大戦前~大戦中のフェイクニュースを取り上げている。

第2章「活字的理性の限界―関東大震災と災害デモクラシー」

世界大戦前にも、流言はあり、なおかつ災害時には多くで回っていた。本章では関東大震災発生以降や、1918年の「米騒動」後に起こった混乱とメディアにおける取り上げ方などが取り上げられている。そう考えるとメディアは混乱を引き起こすと言う意味合いは、特に災害などの混乱の時期に顕著になることに変わりないと言える。

第3章「怪文書の黄禍論―「キャッスル事件」の呪縛」

新聞でも思想面での「闘い」は存在していた。それは事件が捏造される、あるいは日和見ながらあおり立てるような事も存在している。もっともその思想の闘いによって、事件を「捏造」するようなこともあったのだという。

第4章「擬史の民主主義―二・二六事件の流言蜚語と太古秘史」

二・二六事件もまた、情報が錯綜するようなことが度々起こった。その錯綜の中にはメディアにおける「流言」もあったという。もっとも軍の叛乱による事件だったため、情報統制もあった事は否めない。とはいえど、二・二六事件における「怪文書」がどのような扱いをされてきたのか、そのことについても本章にて言及している。

第5章「言論統制の民意―造言飛語と防諜戦」

戦時中になると、言論も含めた情報統制は厳しいものになる。もっとも戦争は武器での闘いばかりではなく「情報戦」という側面も持っているためである。他にもサブタイトルにある通り「防諜」の戦いでもあり、防諜のための流言も少なからず存在した。

第6章「記憶紙の誤報―「歴史のメディア化」に抗して」

今も昔も騒がせている「歴史認識問題」であるのだが、その歴史認識についてもメディアが善意・悪意双方とも誤報を出して、そのまま主張している様な事が度々ある。これは最近に限らず、戦前にも存在していたという。

第7章「戦後の半体制メディア―情報闇市の「真相」」

もっとも戦争におけるメディアはある種の「プロパガンダ」の要素も秘めている。さらに言うと、戦後に至っても、戦後処理の観点から検閲をはじめとした言論統制が行われており、日本でも大東亜戦争敗戦後にもGHQによる検閲がかけられた。

第8章「汚染情報のフレーミング―「原子マグロ」の風評被害」

「汚染」は言うまでも無く原発や放射能に関することである。「美味しんぼ」にまつわる話はもちろんのこと、「キャッスル大作戦」などがあるのだが、その中でも特に取り上げているのが「ビキニ水爆実験」による「第五福竜丸」乗組員の被曝事件である。特にこのときには本章のサブタイトルにある「原子マグロ」という風評被害もあった。

第9章「情報過剰社会の歴史改変―「ヒトラー神話」の戦後史から」

今日では情報がかなり氾濫しており、その中でありもしない話を「神話」として取り上げられることも少なくない。それがある種の歴史改変になると言ったものも中には存在しており、本章ではアドルフ・ヒトラーの神話について取り上げている。

流言はいつの世も存在しており、特に戦争や大流行などの特にネガティブな事における出来事が起こったときには度合いが強まってくる。しかし、その流言を取捨選択するのはあくまで私たちである。私たちがメディアから流れている情報に対して疑いながら、そして取捨選択しながら行っていくこと、そう言う意味のメディア・リテラシーを持つべきだが、情報が氾濫している今だからでこそ、より強く求められるのではないだろうか。