本書のタイトルである、「ブッダの獅子吼(ししく)」は、
ブッダが、自信をもって、ライオンが吼えるように、声を響かせながら教えを説いているp.2より
とあり、実際に「ディーガ・ニカーヤ(長部)」と呼ばれる経典にも言及されている。本書ではブッダの「法」と呼ばれる教えを紐解いているのだが、ブッダの法自体は膨大であり、なおかつ法の中には日本人の生活にそぐわないものもある。そのため、日本人の生活に合わせて取り上げている。
第一の扉「ブッダ誕生前の時代背景を知る」
ブッダが生まれる前の時のインド大陸では「バラモン教」と呼ばれる古代のヒンドゥー教があり、深く浸透していた。そしてブッダが生まれ、教えを説く前後には仏典における思想家が何人か現れ、宗教思想が入り乱れていった。そこでブッダは思想そのものを探究し始めた。
第二の扉「ブッダの説く最も優れた道を知る」
元々ブッダは「釈迦族」と呼ばれる民族の王子として生まれたため、身分としては高い所の出身だった。その中で快楽にまみれた生活だったが、宮殿から出たときは自ら見た世界とは異なる光景を目の当たりにした。そこから「善」とは何かを求め出家し、苦行を続けた結果、ある「道」や「明」を知ることとなった。
第三の扉「持戒して、ブッダの弟子となる」
ユダヤ教には「十戒」と呼ばれる厳しい戒めがあるのだが、ブッダもまた「五戒」と呼ばれる戒めが存在する。しかしその戒は生活規範の根幹をなし得ており、守ることによりブッダの弟子になることができる。
第四の扉「精神統一したブッダの禅定を知る」
仏教における「精進」と言うと、苦行のイメージが持たれるが、本当の「精進(正精進)」は、
根性や気合いを入れて苦痛に耐え忍ぶことではなく、善を心掛ける「正しい努力」のことをいいますp.92より
とある。正しい努力を行う事、そして「正念」と呼ばれる「正しい気づき」を見出し、さらには「正しい精神統一」を行ったことにより「正定」という法に目覚めた。
第五の扉「ブッダの悟りの智慧を理解する」
正しい見方(正見)や正しい考え(正思)を持つことにより次々と法に目覚めていった。法を目覚めていく中で人や行為、会議といった所にも言及している。
第六の扉「ブッダのように、悟りを深化させる」
人としての正しい行い、思考から、さらに悟りを深化して「縁起」や「非我」といった法に目覚め、そして人間もとい動物において必ず訪れる「死」の法に目覚めた。この「死」と言う目覚めは単純な「死」ではなく、あらゆる物事にまつわる部分も含まれている。
第七の扉「ブッダの説く善行を実践する」
四字熟語に「因果応報」がある。それは、
過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報が生じ、現在の業に応じて未来の果報が生ずること「広辞苑 第七版」より
とあるが、元々この言葉は仏教にもあり、なおかつ本章にて紹介する「業報」という法に因んでいる。
第八の扉「迷信へのブッダの見解を理解する」
死後はどうなっていくのか、記憶などに残るのか、そしてどのように死後の自分を「知る」のか、そこには「無記」という法がある。また心身が安定して善い状態になると「神通力」という法にも目覚める。この神通力はよくある超人的な力の事を指す人もいるが、実際にはあるものの、神通力の意味の一部に過ぎない。
第九の扉「ブッダの教えを発展させる」
ブッダ自身の教えは第八の扉までであるが、本章ではブッダの後に成立した「法」があり、そのことを取り上げている。例えば「忍耐」や「修行」といった法がある。
第十の扉「ブッダのように、法に目覚める」
ブッダはいくつもの法に目覚め、悟りを開いていった。それはわずかなときでも行をおこない、なおかつ善く生き続けたことによってなし得てきた。わずかな時間でも貴重に過ごし、なおかつ善行を積むことによって法に目覚めることができる。
本書は仏教の開祖であるブッダの教えを、私たちの生活を交えながら紐解いている。大元もあるのだが、冒頭でも言及したとおり、今の日本人に会わない箇所があるため、より私たちの実践がしやすい、あるいは心持ちになりやすいように活かすためにつくられている。扉は全部で10ある。第1の扉から読み進めていくことがセオリーだが、自分が開きたいところ、あるいは印象に残るところがあれば第1以外の扉から入っても良い。
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