ここ最近のメディアでは誰でもが発信し、誰でもがコメントできる、ある意味メディアの双方向化が行われていると言っても過言ではない。そのような風潮の中で、いわゆる「フェイクニュース」と呼ばれるものがよく叫ばれている。とはいえあくまで本や既存メディアなどで大きく叫ばれているだけで、実際にフェイクニュースの概念自体は瓦版があった江戸時代のころからずっと存在している(内容は幽霊や妖怪など荒唐無稽の話だが)。
そのような風潮の中でフェイクニュースと呼ばれるモノを避けて、どのようにして情報の取捨選択を図っていくか、それだけでなく、日本におけるジャーナリズムの衰えと復活について取り上げているのが本書である。
第1章「「紙」とともに消える日本の新聞」
日本の新聞自体はジャーナリズムが存在するのかと言うと、首を傾げるようにまでなった。もっともSNSの情報を鵜呑みにしてしまい、新聞で取り上げられ、実際には事実無根の記事が発覚したと言う話題も数多く存在する。中にはお詫びの記事を出すという所もあるが、有耶無耶にしてしまい、そのままにするようなメディアも存在するほどである。
ジャーナリズムの信憑性もあるのだが、デジタル化についても日本の既存新聞社では海外に比べて遅れを取っており、発行部数の減少に拍車をかけている要因と指摘している。
第2章「フェイクニュースに操られる世界」
フェイクニュースの内容が一人歩きし、事実に反して、さも一人歩きしているようになっている現状もある。事実と異なる報道は、悲しきかなメディアでは良くある話で、政治や国際情勢、さらには第4章でも述べるのだが戦争の中でもフェイクニュースは存在する。特に本章ではアメリカにおけるトランプのフェイクニュースの諸々を紹介している。
第3章「中国が仕掛ける情報戦」
戦争の中には「情報戦」と呼ばれるモノも存在する。特にここ最近では武器による戦いと言うよりも、情報統制や公開、さらにはフェイクニュースなどを含めた「情報戦」があたかも戦争における駆け引きの如く展開されている。本章では中国における情報戦の在り方を取り上げている。メディアにおける煽動はもちろんのこと、監視員を雇い情報統制を行っている現状が明らかになっている。
第4章「ジャーナリズムと戦争」
特に戦争となると、情報統制は今とは比べものにならないほど厳しくなる。海外に対して自国が不利な情報を流すとなると、戦況も大きく変わってしまう側面がある。そのため、事実とは異なるような記事を流す、現状として厳しい状況にありながら流さないといったこともまた相手を錯乱させるための「情報戦」としての側面を担っている。しかしそのフェイクニュースの在り方によっては、自分で自分の首を絞めるようなこともあり、特に本章では大東亜戦争におけるフェイクニュースとそれにまつわる苦しみも取り上げている。
第5章「海外ジャーナリストが見るメディア20」
ネットの普及によって、メディアはより身近になる一方で、「タコツボ化」といった側面を持っている。いわゆる極端な玉石混淆と呼ばれる状態に陥っているという面も持っており、どれが信頼できるのかわからなくなっている。著者自身がよく見ており、なおかつ信頼できるメディアを20個取り上げているが、実際に観る人によっては偏向的と捉える方もいれば、一致していると考える方もいる。
第6章「日本のジャーナリズム復活のために」
新聞にしても、記事にしても特に良くあるのが無署名の記事である。既存メディアではその傾向が未だに残っており、無署名のメディアの中にはあたかもフェイクニュースのような記事・論説を行い、非難を浴びるケースも存在している。著者自身はニューヨークタイムズで仕事をしていたのだが、無署名の社説の影響で取材がキャンセルされた苦い経験を持っている。そのため、
「オピニオンは署名入りで書け」p.171より
と主張している。この主張は新聞のみならず、週刊誌・ネットメディアもまた同様にそう思うと言わざるを得ない。
データを取得して、活用するにもリテラシーが必要であり、私たちメディアから情報を受け取るところでもまたリテラシーが必要である。特にフェイクニュースをどのようにして見破るか、その力はどの人にも持つべき力であることを知るきっかけとなるのが本書と言える。
コメント