ベルリン・オリンピック反対運動 フィリップ・ノエル=ベーカーの闘いをたどる

オリンピックは国のみならず、世界的な一大イベントであり、なおかつ国や選手の名誉をかけた戦いでもある。近年では経済成長の象徴として扱われ、潤沢な利益を得るために招致合戦を繰り広げている。

本来であれば昨年に東京にてオリンピックが行われることとなったが、2019年末から広がり始め、今もなお猛威を振るっている新型コロナウイルスの影響により、1年延期となった。現時点では行う予定なのだが、中止の声が多いのも事実である。

そのオリンピックについて開催の動きを見せている一方で、招致や開催を反対する運動を見せるのも国内外にてあった。東京オリンピックもまたコロナ禍を含めたいくつかの影響で国内外にて批判の声があるが、その声が最も多い大会だったのは1936年に行われた「ベルリン・オリンピック」である。通称「ナチスのオリンピック」「ヒトラーのオリンピック」と揶揄された。ベルリンオリンピックの反対運動は特にイギリスにて政治利用の観点から反対運動を起こしたとされている。反対運動はどのように展開されていったのかを本書にて取り上げている。

第1章「イギリスのベルリン・オリンピック反対運動」

元々オリンピックはスポーツの祭典である色が強く、政治利用については縁遠かった。しかし初めて政治利用されたのが、本書で紹介する1936年のベルリンオリンピックだった。もっとも時の総統であるヒトラーはオリンピック開催そのものに難色を示していた(嫌悪している「ユダヤ」の祭典であると認識していたため)。とはいえ側近の説得により、政治的プロパガンダとして開催を容認した経緯がある。

そもそもベルリンで開催されることについて難色を示し、なおかつボイコットも行おうとしたのがイギリスやフランス、アメリカと行った国々であり、特にイギリスは、ヒトラーの発言や人種差別政策などがボイコットの背景としてあった。オリンピック前にも国際的な交流戦などを行ってきた大会について反対運動を起こすといったことがあった。しかしながらナチス側にて差別施策を一時停止したり、発言を抑えたりすることによって結果的にほとんどの国は参加することとなった。

「ほとんど」と記載したが実際にボイコットした国もあった。その一つにスペインがある。スペインはナチスに対する批判のみならず、オリンピック招致にも敗れてしまった要因が重なったことも要因としてある。そのスペインがベルリンオリンピックに対抗して「人民オリンピック」の開催を計画し、開催寸前まで行ったのだが、スペイン内戦に伴い中止となった。

第2章「ノエル=ベーカーによるオリンピック憲章擁護の闘い」

「オリンピック憲章」にはこのようなことが書かれている。

このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、 いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。「オリンピック憲章」 オリンピズムの根本原則 6.より ※左記リンクのp.11

こちらは2016年8月に改正された現行のオリンピック憲章だが、そもそも憲章が成立したのは1925年のことである。その時に先述のものが記載されているかどうかは不明であるのだが、本章を読むに、ベルリンオリンピックの開催前、もしかしたら憲章が制定されてからずっとあったと推察できる。

その憲章を強く擁護し、政治や人種差別政策を行うベルリンにオリンピックを開催することに反対意見を唱え続けた人物がノエル=ベーカーであるという。

第3章「ウォルター・シトリーンのナチ・スポーツ独裁批判」

第1章でも述べたのだが、側近の一言によって政治的プロパガンダとしてオリンピックを開催されたが、開催に関して批判した人物・団体がいた。その人物がウォルター・シトリーンである。シトリーンはイギリスの労働組合を束ねる統括団体の書記長を務め、さらには国際的な労働スピーツ協会のトップも務めた。その立場から国別対抗のフットボールマッチやオリンピックの開催について批判運動を展開したが、その動きもまた取り上げている。

最終的にはベルリンオリンピックは開催された。しかしながら政治的利用が行われたコトによる批判は止まることなく、やがて第二次世界大戦へと歩を進めることとなった。それがきっかけというのは短絡的になるのだが、峻別する必要があるのだが、政治的批判とともにオリンピック開催への批判があったことは頭にとどめて置いた方が良い。