奇蹟の爪音―アメリカが熱狂した全盲の箏曲家 衛藤公雄の生涯

昨今では新型コロナウイルスの影響により、ライブなどが開催されなくなると言ったことも相次いでおり、イベント業界や、ライブハウス業界などでも苦境にあえいでおり、倒産した所もちらほらある。

そのイベントについて、日本人が日本では日本武道館で、アメリカではカーネギー・ホールで公演すると言ったことは少なくないのだが、中でも日本初・日本で二番目に行った方がいる。本書で取り上げる箏曲家の衛藤公雄である。

衛藤公雄は全盲の箏曲家として知られる一方で戦後間もない時にアメリカへと渡り、日本人史上二人目のカーネギー・ホールでの公演(もちろん箏曲家としては初)、さらには日本人はおろか東洋人として初のリンカーンセンターのフィルハーモニックホールでの公演も行った。今となっては当たり前にある日本武道館における音楽公演を行った初めての人物もこの衛藤公雄である(個人として)。その衛藤公雄の生涯を取り上げている野が本書である。

第一部「海を越えて」

衛藤公雄は1924年に大分県にて11人姉弟の6人目として生まれた。幼少に事故で失明をしてしまい、以降生涯にわたって目が見えないハンディを背負うことになった。その後箏の魅力に取り憑かれ、弟子入りして修行に励むと、なんと14歳で弟子を持つといった「神童」と呼ばれるような活躍を見せるようになる。

また作曲の才覚も持っており、昨今にて演奏されている箏曲の中でも衛藤が作曲しているものも多い。また日本独特の箏にかんしての伝統を守ることと、新しい伝統をつくる事への情熱もあり、終戦後には箏でジャズを弾く、さらには自らアメリカに渡り、公演を行うなど、特にアメリカでの活躍が目覚ましく、先述の通りカーネギー・ホールやリンカーンセンターのフィルハーモニックホールで公演を行うほどにまでなった。

第二部「箏の国にて」

衛藤はアメリカから帰国しても、箏を広めるための活躍も行った。同じ箏曲家である沢井忠夫との交流、さらには多くの文化人との交流や演奏会などを重ねていき、箏の文化を広げることに大きく貢献していた。

今でも現代音楽との交流もあり、なおかつ箏の音楽は様々な媒体で伝わっている。ここ最近ではマンガ「この音とまれ!」やロックバンドの「和楽器バンド」、さらには先述の沢井忠夫の息子である沢井比河流の活躍もあり、箏の文化は変化をしながら広がりを見せている。その草分け的存在の一人として衛藤公雄の姿があった。