昨今では政治や社会に関してメディアがどっぷりと浸かることはよくある話だが、メディア自身で大衆に対し「印象操作」を行うような風潮がある。その操作を行うようなニュアンスの報道を行い、他のメディアにて批判を行うといったことも少なくなく、明らかな誤報であったにもかかわらず、謝罪ならまだしも訂正するようなメディアはめったにない。
本書の話に移るのだが、そのメディアに関して、考察などを行った海外の名著を紹介しているのだが、その名著の紹介自体が「メディア」そのものの考察の一つにもなる。
Ⅰ.「大衆宣伝=マス・コミュニケーションの研究」
新聞や雑誌、最近ではインターネットなどで宣伝を行う事は「大衆宣伝」として挙げられる。政治的なものから新聞そのものの原理、さらには「大衆宣伝」は「マス・コミュニケーション」とも言われ、ナチスドイツ時代における校歌を取り上げた本などを紹介している。
Ⅱ.「大衆社会と教養主義」
メディアは時として社会や教養を伝える役割を持っているのだが、新聞をはじめとしたメディアにおける「文化」はどのように変化したのかを取り上げる本もいくつかある。本章では文明から文化、さらには読み書きなどの教養の変化がメディアにどう関わっていたのかを紹介している本を取り上げている。
Ⅲ.「情報統制とシンボル操作」
メディアは時として政治や国家における「規制」の対象にもなる。今となれば「表現の自由」や「知る権利」と言ったもので訴えられることもできるのだが、そこには「公序良俗」や「国家機密」といったものもあり、それらを伝えるとなると、情報漏洩になるどころか、国家の転覆に一役買うと行った売国的な行為にもなりかねない。それをお防止するための「情報統制」の役割もある。また「印象操作」かつて大東亜戦争などの戦争でおこなった「国威発揚」の側面も持っている。
Ⅳ.「メディア・イベントと記憶/忘却」
そう言う意味ではメディアにおける印象操作は各々のメディアの思惑も秘められている。特にかつて取り上げた「フェイクニュース」もまた一つのメディアにおける印象操作とも言える。そのメディアは時に風刺なるものも存在しており、特に「マンガ」は手段の一つとして使われることがある。他にもメディアは映画や絵画などもある。
Ⅴ.「公共空間と輿論/世論」
「公共空間」と言うと、とっつきにくい部分があるが、実際にはメディアなどを情報を発信したり、受信したりする空間を表し、なおかつ私たちがニュースで語られる「世論」そのものである。その世論に関してのメディアの影響力や、世論がどのようにして形成付けていったかを取り上げている。
Ⅵ.「情報社会とデジタル文化」
社会は常々変化する。メディアの文化もまたインターネットを含めたデジタルの進化によってもたらされた。その変化はメディアとしてどのような変化を起こしたか、本章ではそのことについて考察を行った本が挙げられている。
メディアに関しての名著を見てみると新型コロナウイルス然り、国会然り、メディアは様々な面で印象操作を行っている。もっともメディアは事実のみを取り上げるだけではなく、メディアそれぞれの「思想」があり、その思想でもって脚色を行ったり、操作を行ったりしている。こういった状況を取り上げるとなると、かつての首相である佐藤栄作の退陣会見がどうしても思い出してしまう。
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