メディアの驕り

メディアはよく「拡声器」と言う言葉を使うことがある。しかしながら、その拡声器はあたかも「サウンドミキサー」でドリフのコントのような声を変えるが如く、解釈で本来の主張そのものを変えてしまう、と言うことがしばしばある。

特に新型コロナウイルス関連の報道について、本来主張していることとは全く違う主張がなされ、Facebook上で抗議、あるいは説明をするといったことが度々見られた。もっともこのようなミスリードを行ったとしても陳謝や謝罪と行った声が一切ない、最悪開き直るといったことも度々ある。本書はそのようなメディアの驕りを、メディアに関わるジャーナリストが斬っている。

Ⅰ.「プラスとマイナスが逆転している」

メディアがミスリードして、世論をつくり出し、それが政治へと伝播して、日本の価値を下げたと言うことは今に始まったことではない。バブル崩壊でもその引き金になったと指摘している。その一例として「ヴェニスの商人」というシェイクスピアが描いた喜劇があるのだが、その喜劇にまつわる解釈の誤りが、メディアにおけるミスリードにも通ずるものがある。

Ⅱ.「驕りを生む構造」

本章では新聞記者や、記者クラブの実態を取り上げている。特に新聞記者については本章を読むだけでも政治的な権力者をそのもののような気がしてならないほどである(もちろん著者が活動した当時のことであるため、現在はどうなっているのかは不明)。また記者クラブについてはいくつかのメディアに関する本で取り上げたことと同じように閉鎖性を指摘している。もっとも数年~十数年前も同じような事を見たとするならば、「変わっていない」と言うほかない。

Ⅲ.「放送のロマンを築いた人々」

「メディア」自体は歴史的にも瓦版や掲示板と言った所でニュースとして知ることができるというものから始まった。テレビや新聞、雑誌などは第二次世界大戦前後の所で知られるようになった。その時代には「放送」の概念が生まれ、ニュースを組み立てて行くことに試行錯誤し、本来のメディアのあり方を伝えた人物たちがいた。それはアメリカやイギリス、フランスなど海外のメディアであった。

Ⅳ.「中東を知らない日本人」

今から10年ほど前に戦場カメラマンの渡部陽一氏がメディアで引っ張りだこになることがあった。口調やキャラクターで人気を博したのだが、本来は中東地域をはじめ、多くの戦場を取材し、写真を収めてきた。その中でのレポートも行っている。

渡部氏に限らず、ジャーナリストやカメラマンの中には直接現地の取材を経て、ありのままの情報を伝えようとしていた。しかし政策や実際に目にするメディアは「解釈」をはじめとした様々な要因で以て歪められているという。

Ⅴ.「平和に欠かせないのは「知力」」

本章では平和を続けるためには「知力」を持つことが大切であるのだが、それ以上に、「正しい知力」を持つといった方が良い。情報はもはや玉石混淆のごとく、良いものも悪いもの、さらには粗末なものまである。そのようななかで、以下にして良い情報を手に入れるか、そして取捨選択できるかというベースとなる「知力」を身につけ育てていくかが課題となる。

メディアは色々な情報が飛び交うのだが、中にはフェイクニュースなど意図的にミスリードさせるようなものまである。それはインターネットに限らず、テレビ、新聞、さらには書籍にもある。情報を取捨選択し、正しいものを手に入れること、それは「教養」でもあり「知力」をもつこと、そして「疑い」を常に持つこともまた驕りのあるメディアから正しい情報を引き出す上で必要なことである。