東條英機 「独裁者」を演じた男

第二次世界大戦における枢軸国の先頭指導者というと、イタリアではベニート・ムッソリーニ、ドイツではアドルフ・ヒトラーといる。しかし日本ではと言うと、「軍部」と言うだけあり、明確な指導者は年々と変わってきており、明確ではない。しかしたった一人を上げるとなると、本書で紹介する東条英機が挙げられる。本書は東条英機を思想の偏りもなく、様々な日記や史料に基づいてありのままの生涯を紐解いている。

なお元々は東「條」と旧字体の「條」を使うのだが、当ブログでは開設当初から新字体の「条」に統一していることをお許し願いたい。

第1章「陸軍士官になる」

東条は1884年に東京にて生まれた。父は陸軍中将にまで昇格した東条英教であるが日露戦争でのミスによる作戦失敗により予備役へと編入させられた。当人は当時発言力の強かった長州閥(山縣有朋をはじめとする)に睨まれていたと主張しているが、本来は実践指揮不足が挙げられていた。しかし長州閥への怨恨が父・英教から子に伝わっていった。

父の英教は陸軍大学校を首席で卒業したのに対し、子の英機は落第もあるなど、決して優秀とは言えなかった。陸軍大学校も受験したところ2回落ちている。その時に後の上官となる永田鉄山らと出会った。

第2章「満洲事変と派閥抗争」

大学卒業後、中隊長の指揮を経て、大学校の教官になっていった。特に中隊長と教官の間でスイス・ドイツと駐在武官として滞在したことがある。その時に永田らと勉強会を開き、「バーデン=バーデンの密約」を結んだことは有名な話である。

しかしその密約が決裂する前後から本章の話が始まる。石原莞爾板垣征四郎らが満洲事変を起こした。その事変の処理と、後の人事とで永山と永山の同期で共に密約を結んだ小畑敏四郎と激しい対立が起こった。後の「統制派」と「皇道派」となり、二・二六事件の引き金の一つとなった。

第3章「日中戦争と航空戦」

1935年に大陸に渡り、関東軍に身を投じることになった。憲兵隊司令官や警務部長を経て1937年に関東軍参謀長に就任した。この関東軍は満洲に駐留していたが、その満洲に関して「拡大方針」とするか「不拡大方針」とするかで対立があった。前者は東条のほかに、かくだい同じ武藤章などがおり、後者は満洲事変を引き起こした人物の一人である石原莞爾がいた。

特に東条と石原は元々性格・思想の不一致になることが多く、ことあるごとに対立し、ついに東条は石原を予備役にさせた。

その後日中戦争の中で、陸軍次官、陸軍大臣を歴任したのだが、当人は、

東條は、「フン、おれは時間をやって、水商売は懲(こ)りた。やるもんじゃない」とも、「軍司令官になるように教育されたんだ。水商売は知ったことじゃない」とも吐き捨てるように言ったという。pp.133-134より

と話している。生粋の軍人を目指した東条にとって政治は「水商売」そのものであり、なおかつ興味がなかったことが窺える。

また東条の陸軍大臣時代に配付されたのは「戦陣訓」であるが、「生きて虜囚の辱を受けず」で有名なものだが、あくまで東条が陸軍大臣の時に配付したものであり、素案は東条の陸軍大学校の同期である今村均らが構築したものである。ちなみに東条の演説の中に「今や…であります」といった口調での演説、さらにはヒトラーを参考にした演説手法はこの陸軍大臣の時から採用されていたという。

第4章「東條内閣と太平洋戦争」

近衛文麿内閣が瓦解し、東条も陸軍大臣を辞任した。その後は他の人に首相や大臣を推挙して、自らは司令官として軍務に励もうとしていた矢先、首相に推挙された。こちらも有名な話であるが、内大臣である木戸幸一の独断で昭和天皇に推挙したという。天皇への忠誠が強かったことからあっさり承認した。もっとも推挙されたことに東条は、

突然のことに茫然となったp.185より

という。しかし戦争回避に向けて、自らの主張を直ちに変え、回避に向けての交渉を進められた。しかしハル・ノートにより開戦を決意し、大東亜戦争へと進めることになる。この戦争時に懲罰人事などがあったのだが、東条自身の狭量な性格があったとされているが、他にも敗戦への恐怖心もあった。

第5章「敗勢と航空戦への注力」

ミッドウェイ海戦を境に、各戦で敗戦が続き、敗戦の色が濃厚になっていった。大東亜戦争の打開策として外遊や大東亜会議の主催を行うなど、アジア各国の連携強化を図ることができたのだが、時既に遅しの状態であった。やがて四面楚歌となり、東条内閣は瓦解。東条も予備役となった。

第6章「敗戦から東京裁判へ」

やがて敗戦となり、世間は東条に対する批判が急速に強まった。敗戦の翌月には逮捕に際して、拳銃自殺を図ったが未遂に終わってしまった。そのことも火に油を注ぐようなことになった。一命は取り留め東京裁判に臨むのだが、東条はあくまで自らを弁護せず、国家弁護、さらに天皇弁護に終始した。天皇免訴の決定的な要因をつくった。そして絞首刑の判決を受け、1948年12月23日、刑場の露と消えた。

東条の生涯を追った一冊であるが、東条はかねてから神経質であることは有名な話である。しかしその神経質の裏にはテロを含めた様々な外的要因からの「恐怖心」がそうさせていたという。その「恐怖心」がおそらく本書で初めて明らかになったとも言える。