遊王 徳川家斉

徳川家斉は江戸幕府の11代将軍であり、江戸はもちろんのこと、鎌倉・室町を含めた将軍、さらには征夷大将軍の中では最も在位の長かった将軍であり、50年もの間その座にいたのだが、12代将軍家慶に譲った後も逝去するまでの4年間は実質的な権力を握り「大御所時代」をつくったため、実際には54年もの間、実権を握った人物である。

実権を握るほどの権力やカリスマ性があったかというと、実はそうではなく、老中が家老らに政治的な実務を譲ったため、側近政治の土台をつくったともされている。また幕政の腐敗が起こったのもここからであり、幕府の権威が落ち始めた時代でもあった。本書は家斉が将軍になってからの時代と、家斉そのものの人物について取り上げている。

第一章「「斉」の全国制覇」

「徳川家」と言っても、いくつかの家に分かれており、尾張・紀州・水戸・田安・一橋・清水といった徳川家が存在した。前者の3つは「御三家」と呼ばれており、後者の3つは「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれ、家斉は御三卿の一つである一橋家の出である。

第二章「十一代将軍への道」

徳川家の将軍の世継ぎについては時には各家ごとの争いにもなったことがあり、後継工作も行われた。本来次期将軍となるはずだった徳川家基が16歳で薨去すると、後継が表面化し、勝利したのが一橋家であった。家斉は10代将軍かった家治の養子になり、家治薨去後、15歳で将軍へと上り詰めた。本章ではこの「後継工作」について詳しく述べられている。

第三章「「生」への執念」

本章のタイトルは「生」とあるが、実際には「性」の側面もある。というのは家斉は、別名として「オットセイ将軍」「子作り将軍」とも呼ばれるほどだった。正室や側室を数えるだけでも16人もの関係を持ち、確認できるだけでも53人もの子どもを儲けたと言われるほどである。なぜ「オットセイ」と呼ばれたかというと、オットセイの生態もあるのだが、当の家斉はオットセイの睾丸を粉末にして、あたかも漢方薬として飲んだことや、生姜が好物であったことも挙げられる。

第四章「「政」はお任せ」

当の家斉は将軍として政治を行っていたかというと、実際は老中を含めた「家老」たちに任せきりであった。特に将軍になった当初は松平定信が実権を握っており、その後には松平信明を据えるなど、老中たちに政治の仕事を任せて、前章の子作りに励んでいたとされている。また放蕩三昧と言う言葉が似合うようなものだった。しかしそれにも背景があり、

江戸時代は年貢などの形で武家が吸い上げた「財」がどう使われるかで、市井の生活が大きく規定されるp.104より

といったことがあったからである。

第五章「あれもこれも」

家斉の時代には現在に残る江戸情緒溢れる「文化」も生まれ、栄えるようになった。特にこの時代には「化政文化」と呼ばれるものがあり、よくある「江戸っ子」の概念が生まれたのもこの時代である。読本や歌舞伎、相撲なども生まれたのもこの時代である。

第六章「赤門の溶姫様」

漫画作品やドラマ・映画などで取り上げられる「大奥」だが、側室の女たちの戦いを描いている。現実大奥の中ではどのような戦いが行われたのかについてが本章の中心となる。

第七章「江戸の弔鐘」

50年の間将軍になった後、12代将軍に家慶を継がせたのだが、実際には家斉が実権を握った。大御所時代である。しかし家斉が逝去する前後に、水野忠邦が老中となった。家斉逝去後、実権を握った忠邦が天保の改革を行い、老中などの側近政治を打破した。

最も長い将軍だった家斉であったが、実際に将軍としての権力は持ってはいたものの、改革を行うなどの政治的な関与は行っておらず、世継ぎだけしか行っていなかった。それ故か、15代将軍の中ではどちらかというと、歴史的にも影の薄い将軍であったとも言える。

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