タバコ吸ってもいいですか ― 喫煙規制と自由の相剋

私自身は成人になってから一切タバコを吸ったことがないのだが、タバコを吸うことについては嫌悪感を覚えておらず、「個人の勝手」だと思っている。しかし中にはタバコそのものを嫌悪する嫌煙家もおり、その嫌煙の度合いによってはある種「ヒステリック」になっているような気がしてならない。

ではタバコを吸うことは健康を害することは科学的にも立証しているのだが、そもそも「嗜好品」であることは忘れてはならない。また「吸う」も「吸わない」も自由である。本書はその喫煙にまつわる自由と規制について法的、あるいは倫理的な観点から取り上げている。

<喫煙はどこまで個人の自由か ― 喫煙の倫理学>

喫煙は吸うのも吸わないのも「自由」である一方で、どこで吸っても良いというわけではない。もちろん喫煙を行い自由の中でも「責任」が伴われるが、その「責任」を果たしていない人も中にはいることも忘れてはならない。

それはさておき、公共空間はかつては喫煙が許されていたのだが、それが喫煙スペースができていき、やがて全面禁煙となっていった。では私的空間はどうなのかというともちろん喫煙が許されているところもあれば、一切許されていない所もある。どこまで「自由」を担保すべきかを倫理学的に紐解いているのだが、現に倫理の範疇を超えた現実面でも激しい議論が続いている現実もある。

<喫煙しない自由からの闘争 ― 喫煙規制問題を倫理学する>

禁煙に関する規制論争は今に始まったことではない。それは科学的に「副流煙」の害が出たこと、さらにはタバコそのものへの嫌悪感といった感情と科学両輪での議論があった。20世紀半ばでもアメリカにおいて、タバコにおける訴訟が起こったこともある。またかつては「F1」を観戦していた時、タバコ広告にまつわる議論があり、多くのチームはタバコメーカーのスポンサーとなり、マシン・レーシングスーツなどにロゴを入れていたのだが、いつしかロゴを入れることすらも禁止された。

また日本でも前章にて取り上げたように喫煙する場所をドンドンと規制しようとする、あるいは禁煙に関しての規制を強めるという動きもある。その禁煙の方向性と喫煙に対しての風潮についても本章にて取り上げている。

<医療経済学の立場から見た喫煙と喫煙対策>

医療経済といった医療を中心とした市場の流れや理論について議論を行う学問の中で喫煙とそれに対しての対策はどう見るのかを取り上げている。ようはタバコの販売はもちろんのこと、禁煙グッズの販売、あるいは禁煙外来などを含めた「経済モデル」がどうなっていくのかと言うのが中心となる。

<ある喫煙者の反省文>

嫌煙家の中には「嫌煙権」なるものがある。もう今となっては死語となっているため「あった」と言う方が正しいか。もっとも嫌煙権といった動きが出てきたのは1970年代の頃である。その時は公共施設を含め、ほとんどの場所では喫煙が認められていた時代に、非喫煙者の健康被害によって「嫌煙権」とそれに関連した運動や訴訟が出てくるようになった。本章では80年代にあった訴訟と、そして法整備などを中心に取り上げている。

<ネオ・ピューリタニズムに抗して ― 喫煙の人生論と法哲学>

元々は喫煙について容認していたのだが、健康への害があったという「実害」が出てきて、禁煙、あるいは喫煙規制といった動きが見られるようになった。もちろん健康増進に向けた良い方向である一方で、それが先鋭化してしまっている気がしてならない。喫煙についての人生と法整備についてと、「分煙」について取り上げている。

禁煙の動きはもちろん必要である。特に喫煙に関しての害もわかっており、禁煙をしなければならないというのもわかる。しかし喫煙はあくまで「嗜好」であるため、喫煙者をあたかも差別の如く罵ることは違う。もちろん喫煙者も喫煙者でマナーを守ることによって他人の害をなくすことも必要である。お互いさまと言えばそれまでであるが、禁煙も喫煙もともに住みやすい世の中になること、非常に難しいかも知れないがそれが実ればきっと良い社会になるのではと考える。