板垣退助-自由民権指導者の実像

「板垣死すとも自由は死せず」

これは1882年岐阜にて遊説中に暴漢に襲われた事件にて発した言葉であるが、実際には「吾(われ)死するとも自由は死せん」である。それがメディアによって今のような言葉に変えられ、広まっていった。

板垣退助はいわば「国会の父」あるいは「憲政の父」とも呼ばれた。自由民権運動の指導者であり、なおかつ江戸時代では倒幕の主導者の一人としても有名である。その板垣退助の生涯について追っているのが本書である。

第1章「戊辰戦争の「軍事英雄」―土佐藩の「有為の才」」

板垣は土佐藩にて藩上士(上級藩士)の嫡男として生まれた。子どもの頃から義侠心が強く、なおかつ喧嘩に明け暮れるなど、わんぱくな少年・青年時代であった。その一方で藩上士の嫡男であるが故に、藩の中心人物となるべく動いていた。青年から大人になったときは既に「幕末」と呼ばれる時代で一時期江戸に出向したが土佐に戻り、薩摩藩の西郷隆盛とともに「密約」も交わした。やがて倒幕し、明治時代へと移ると、権力争いが起こった。

第2章「新政府の参議から民権運動へ」

その権力争いは戊辰戦争の先の所で、新政府の中で政権を動かしていたのだが、またしても戦いがあった。「征韓論争」である。1873年に書契問題で朝鮮国の無礼を働いたことにより、朝鮮国へ使節を送ろうとした議論である。よくある「征韓論」とは異なり、「遣韓論(けんかんろん)」の傾向が強く、使節は西郷隆盛自ら行おうとした。しかし岩倉具視大久保利通岩倉使節団が帰国してから元々使節を送る決定が反故にされた。それに激怒した板垣や西郷隆盛らは下野した。下野してからは西郷は西南戦争で自刀した。一方の板垣は言論を通して改革を行おうとした。その一つとして国会開設の運動と、次章にて取り上げる「自由民権運動」だった。

第3章「自由民権運動の指導者―一八八〇年代」

板垣は自由党を結成し、明治天皇が出した「国家開設の詔」をきっかけに国会開設と、自由民権を得るために全国を遊説して回ることとなった。その途中で岐阜で遊説したときに、岐阜事件が起こったが、冒頭の言葉がこの事件で出ており、広まった。

第4章「帝国議会下の政党政治家―院外からの指揮」

ようやく国会(当時は「帝国議会」)ができ、政治家ではなかったが、政党政治の指揮を行った。そのため「院外」と表されている。自由党としての政治の指揮を行いつつ、板紙自らも後に内務大臣を歴任した。

第5章「政治への尽きぬ熱意―自由党への思い」

内務大臣を務めながら、大隈重信とともに政権の中枢を握ったこともあったのだが、政党内外の内紛・対立が著しく内閣そのものも含め総辞職、1900年には政界引退をすることとなった。しかし自由党の再興の思いは消えて折らず、自由党の歴史を残しつつ、新しい政党を築き上げるために動いた。しかし志半ばとなるふくめ1919年7月に肺炎でこの世を去った。

今でこそ日本は自由主義・民主主義は生きているのだが、その基礎となった人物の一人として間違いなく板垣退助が挙げられる。また国会もまた板垣の活躍にて開設に至ったものがある。今となっては批判の的とされる国会であるのだが、当時は議論すらできなかった場所ができた経緯があることは歴史的にも知っておくべき所である。