プロ野球の賞の一つに「沢村賞」がある。これは先発投手の中で最も活躍した人に与えられる賞である。この「沢村」は本書で取り上げる沢村栄治からとられている。戦前のプロ野球界に燦然とした活躍をしながらも、大東亜戦争にて戦死した沢村。その沢村の野球観現在も行われているプロ野球(本書では「職業野球」と記載している)の初期の歴史を取り上げている。
第1章「沢村栄治と正力松太郎」
沢村は1917年三重県に生まれ、京都商業学校(現:京都先端科学大学付属高等学校)に入学し、甲子園で活躍した。その在学中に後に「日本プロ野球の父」となる正力松太郎との出会いがあった。その正力は読売新聞を成長させ「中興の祖」とも言われるほどである一方で、日米野球を積極的に実施し、プロ野球構築に向けて奔走した。
第2章「甲子園のエースから職業野球のエースへ」
本書で言うところの日米野球は1931年からの読売新聞社主催で行う所を表している。それ以前にも存在しており、最も古いところで1908年に別の会社にて行われた。当時のアメリカはプロリーグが成長しており、日本はまだ職業野球自体の概念がなかった時代であった。しかし正力は職業野球としてのチーム結成に積極的であり、後に名監督となる三原脩や、史上初の300勝投手かつ歴代最多完封記録を持つヴィクトル・スタルヒンらを招聘した。
第3章「ベーブ・ルースとの対決―東京巨人軍の誕生」
本章では1934年の日米野球を取り上げている。このときはメジャーリーグでもスターと呼ばれていたベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメスといった選手たちが活躍した。試合としては赤子の手をひねるような状態で日本の16戦全敗に終わったのだが、その中で沢村は活躍をして行った。本章ではその部分を具体的に書かれており、あわや史上初の日本人メジャー選手になるかといった瞬間まで取り上げている。
第4章「職業野球リーグの創成」
この敗北をきっかけに同年12月に日本初の職業野球チームである「大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)」が結成された。その翌年にはリーグ構想もできたのだが、対戦するチームも必要であった。その時に甲子園と阪神電気鉄道が名乗りを上げ、景浦將や藤村富美男らを獲得し「大阪タイガース(現:阪神タイガース)」が組まれた。もっとも現在のプロ野球における「伝統の一戦」にはこのような歴史があった。
また本章では後の語り草となる「茂林寺の特訓」も言及している。
第5章「私は野球を憎んでいます」
元々沢村は野球を憎んでいた。その理由として商業学校時代、甲子園で活躍をしていた一方で、慶應義塾大学への進学を行おうとしたが正力に引き抜かれ、そして読売新聞社からの借金も出てきたことから、泣く泣くプロで活躍せざるを得なくなった事情もあった。本章のタイトルは父に宛てた手紙の中に記されている。
第6章「戦場と球場」
プロ野球で活躍した沢村だが、日中戦争が起こり、徴兵を受けることになった。特に日中戦争では元々ボールを投げていた方で手榴弾を投げていたとされており、その投げすぎで右肩を痛め、さらには戦闘により左手を負傷するなどした。それでも日本に戻れば投球スタイルを変更しながらもノーヒットノーランを達成するなどの活躍も見せた。やがてそのケガが祟り引退を余儀なくされた。後に大東亜戦争で徴兵を受けて、フィリピン防衛戦に向かう途中で戦死した。
第7章「そしてプロ野球が生まれた」
プロ野球は戦前に職業野球として生まれたのだが、戦争を経て、チーム数も増え、やがて2リーグ制となり、現在に至っている。思えばこの日米野球から職業野球が生まれ、戦争を経て、プロ野球へと変わり、お茶の間で愛されるようになった。
今年の東京オリンピックにて日本は野球で金メダルを獲得した。その前にも2017年のワールドベースボールクラシックにてベスト4になったのだが、いずれもアメリカが相手だった。特にワールドベースボールクラシックでは敗戦はしたものの、アメリカ代表もMLBのスターを結集した全力の戦いであった。1-2での僅差の敗北は、100年以上続いた日米野球の歴史のなかで本場であるアメリカに日本のプロ野球が近づいたとも言える。職業野球の誕生から87年、日本のプロ野球は着実にアメリカに近づき、そして肩を並べようとしている。
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