「日本語の乱れ」に関しての本はこれまでに「言葉」や「日本語」に関しての本で繰り返し取り上げているのだが、もっとも乱れているのではなく「変化」であると主張してきた。しかしその変化を相容れない考えから「乱れ」と捉えて批判しているとも書いたことがある。もっとも学問、特に言語学においては「乱れ」という概念は存在せず、単なる批判材料となっていることも否めない。
そこで本書である。日本語に限らず、言語は様々な「変化」を遂げているのだが、日本語はどのような「変化」があったのかを取り上げている。
Ⅰ.「一般的なルールから見た変化」
日本語に限らず、様々な言語には一般的な「ルール」がある。その「ルール」とは、名詞・動詞などの言葉の構成や用法といったものが細かく定められている。しかしながらルールは未来永劫変わらないわけではなく、常々変化を遂げてきている。その「変化」の中には若者言葉といったものも取り入れられている現状や、イントネーションなどの変化もある。
Ⅱ.「現実の言語現象から見た変化」
言葉の変化は、「文化」の起因もある。先日「モダン語の世界へ―流行語で探る近現代」の本でも取り上げたのだが、「モボ」や「モガ」の出現により、「モダン語」ができたことにもあるように、時代、それも「流行」の文化から生まれ、変化した経緯もある。本章ではJ-POPや新商品にまつわる所からの変化、さらには本書は論文であるため、大学生のレポートの表現の変化も取り上げている。
Ⅲ.「新語や慣用表現から見た変化」
常々新しい言葉が生まれる。出処も様々であるが、特に外来語から派生して生まれることもあり、特に海外の文化が入り始めた後から外来語は数多く入るようになった。特にカタカナ語を多用する方々もおり、世代によっては理解できないといった方々もいる。
また本来言うべき言葉が慣用表現で変わることもある。特に有名なところでは「消耗」や「独壇場」がある。前者は本来の読みは「しょうこう」だが、そういう人はほとんどおらず、「しょうもう」と読む人がほとんどである。また後者も、一人舞台を表す言葉だが、本来は「独擅場(どくせんじょう)」と表す。しかしながら土塊(つちくれ)の「舞台」を表す「壇(だん)」と表すことがほとんどである。ちなみに本章では他にもメディアでも取り上げられた「爪痕を残す」もある。
Ⅳ.「教育や社会の面から見た変化」
言葉は変化するが、教育や社会の場でも使われ、それが起因となり変化することもある。環境や教育の「変化」もまた言葉の変化の要因としてあるという。
先の東京オリンピックではスケートボードの種目にてNHKで放送していたとき、解説が独特な表現で語っていたことが取り上げられたことがある。言葉の変化は様々な要因があるのだが、こうした所でも変化の要因にもなると考えられる。その一方で、日本人の多くは「変化」を嫌う。変化を忌避するあまりに「日本語の乱れ」といった言葉が出てくるのではないかと本書を読んで再認識してしまう。
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