戦国時代の真っ只中にあり、織田信長が天下を取らんとしている時期にあった。その時に起こった乱の一つとして本書で取り上げる「天正伊賀の乱」がある。しかしこの天正伊賀の乱は第三次まで起こったのだが、その顛末を取り上げている。
第一章「乱勃発前夜」
伊賀というと「忍者」を連想してしまうのだが、実際には国の一つとして伊賀国があった。しかし戦国武将は生まれていなかったため、国としての印象は薄かった。もっとも国自体も地元の侍(地侍)が自治を行って一種の国として栄えていた。
第二章「織田信長と伊賀衆の関係」
なぜ伊賀の乱が起こったのかというと、伊賀と織田軍の対立は実際にはほとんどなかった。むしろ織田信長を含めたその一族の対立もあった。先述に「ほとんど」とあえて記したのだが、少なからずあったのが、織田信長の次男である織田信雄が、伊賀国を司る北畠家の養子になっていたことにより、少なからず縁があった。
第三章「北畠信雄の独断と挫折―第一次天正伊賀の乱」
それほど織田一族と北畠家は嫌悪な関係でなかったのだが、かつては大河内城の戦いにより和睦の条件として北畠家の養子に「させた」ことでの政略的なものだった。
しかしながら信雄の独断により三瀬の変により北畠家を暗殺し、伊賀国を領国化した。それに反発した伊賀の武士たちが集まり「一揆」として奇襲を行い、織田軍に比べて5分の1以下の兵力であったにもかかわらず、伊賀衆の勝利となった。
第四章「織田軍の大侵攻―第二次天正伊賀の乱」
このことを重く見た信長は激怒し、信雄を激しく叱責。絶縁も含めて言い渡すほどのものだった。もっとも伊賀衆は武士もいたが、撹乱作戦や奇襲など忍者の戦い方に警戒感を持ち、兵力を増強し10万以上の軍で侵攻を行う事になった。「戦いは数」という名の如く、総攻撃を行った。この総攻撃は兵士のみならず、平民をも殺害するなどの残酷なものだった。
第五章「伊賀衆残党の蜂起―第三次天正伊賀の乱」
日本史の公式なものでは第二次までが天正伊賀の乱としていたが、著者は本能寺の変以降でも北畠家再興の動きを見せていた時に「第三次」の乱が起こったと指摘している。本章ではその第三次の乱を取り上げている。
「伊賀」というと忍者のイメージが強いが、そのイメージを確定付ける要素として第一次天正伊賀の乱により、度重なる撹乱と奇襲により織田軍を敗走させた伝説がある。このことも「伊賀」を形成付けた、そのことが本書にて知ることができる。
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