大東亜戦争が終結して76年を迎える。この大東亜戦争の歴史は様々な思いが交錯し、なおかつ召集された人たちはもちろんのこと、普段から住み慣れたところから戦禍となり、疎開せざるを得なくなるといったこともあった。
そして本書は終戦間際に総力戦の象徴の一つとして「国民義勇隊」、後に「国民義勇戦闘隊」となったのだが、その変遷について取り上げている。
第一章「「本土決戦」と国民義勇隊の創設」
敗色濃厚の状態の中で幹部たちは会議で以て本土決戦をすべきという意見もあった。特に終戦直前の御前会議前に行われた元帥会議にて海軍元帥の永野修身、そして陸軍元帥の杉山元の2人は本土決戦を含めた徹底抗戦を主張していたが、同じ陸軍元帥の畑俊六だけは現状を伝え、本土決戦は不可能と主張。昭和天皇は畑の意見を尊重し、徹底抗戦せず、ポツダム宣言を受諾したのは有名な話である。
その本土決戦に備えてつくられたのが「国民義勇隊」である。創設されたのは1945年3月のことである。
第二章「「一億総特攻」への準備」
大東亜戦争はいわゆる「総力戦」にまで発展した。その総力戦の中で、出てきたのが前章の「国民義勇隊」である。もっともこのときは小磯國昭内閣の時であり、閣議決定され、制定されてから総辞職し、鈴木貫太郎内閣へと変わっていった。
第三章「各地における国民義勇隊の結成と動員」
もっとも国民義勇隊は国を挙げて、というよりも各地域事に義勇隊を結成し、動員を行うようなものだった。本章ではなぜ各地の義勇隊の結成となったのか、また地域の一つとして広島県における義勇隊の編成はどのようなものだったのかを取り上げている。
第四章「老若男女に課せられた兵役」
第二章のタイトルにある「一億総特攻」と言わんばかりに召集対象は「全国民」であり、老若男女問わずに召集が課せられた。
第五章「国民義勇戦闘隊の戦闘方法と『国民抗戦必携』」
もちろん国民義勇隊の中には特攻隊と呼ばれる、自らの命で以て戦う人も含まれており、徹底抗戦を行うための訓示もあった。
第六章「学徒義勇隊と戦闘訓練」
歴史の教科書の中には女学生徒が薙刀をもって訓練を行う姿の写真も存在している。特に学生に対しては学校教育を消滅し、戦闘訓練に従事を強いられ、その後義勇戦闘隊として戦地に赴くこととなった。
第七章「国民義勇戦闘隊の戦死者」
実を言うと国民義勇隊における実際の戦死者だがわずかながら存在した。その要因としては訓練の死者もあるが、特に樺太での戦闘にて義勇戦闘隊が参加したことによる死者が出たとされている。
もっとも国民義勇戦闘隊はいたが、終戦後、法律の廃止に伴い解散することとなった。実際に実戦で参加しなかったようなイメージを持たれるのだが、唯一ポツダム宣言受諾後も戦争が存在した。それが樺太での戦闘である。このときに唯一ソ連軍との迎撃のために、配置され、戦った記録がある。本土決戦では使われていなかったものの、わずかながら戦いによって存在した義勇戦闘隊。その存在があったことを我々は忘れてはならない。
コメント