ユーゴスラヴィア現代史 新版

ユーゴスラヴィアは南東ヨーロッパに位置している地域であり、かつては一つの国として存在していた。今は解体され「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」の集合体として形容されている。

このユーゴスラヴィアの地域は20世紀以降、「歴史」に大きくさらされてきた場所としても有名である。そのため「現代史」と銘打っているのだが、「歴史」と広義に表しても、現代史がもっとも強くある。

第一章「南スラヴ諸地域の近代」

元々ユーゴスラヴィアの地域は南スラブ人らによって栄えた。しかし、ユーゴスラヴィアができる前は長らくオスマン帝国の領地であることが長らく続き、なおかつオーストリアを中心としたハプスブルク家(ハプスブルク帝国)の影響もあった。特にオスマン帝国滅亡後にはハプスブルク帝国、後のオーストリア・ハンガリー帝国の影響も強まっていった。

第二章「ユーゴスラヴィアの形成」

ユーゴスラヴィアとして国をなしたのは全部で「2回」ある。その一つ目として「ユーゴスラヴィア王国」である。第一次世界大戦の後1918年に誕生したのだが、本章ではその前にあたる「セルビア王国」の発展から始まる。そもそもセルビア王国は1882年にセルビア公国が発展し、王国となった。このときはオーストリア・ハンガリー帝国の証人も有、関係は良好だったのだが、1908年にボスニア・ヘルツェゴビナの併合から関係は一気に悪化。これが2回にわたるバルカン戦争に発展し、やがて第一次世界大戦になった。その大戦に勝利したセルビア王国は発展的に解消し、ユーゴスラヴィア王国となった。

第三章「パルチザン戦争とは何だったのか」

しかしユーゴスラヴィア王国は滅亡に至る1945年まで安定的に続いたわけではなかった。むしろ議会を含めて混乱が続き、本章で紹介する共産主義者のヨシップ・ブロズ・ティトーを中心としたパルチザンがユーゴスラヴィア王国に侵攻したことにある。しかしこのパルチザンが登場したのにも事情があり、そこにはナチスドイツやファシストイタリアと行った第二次世界大戦における枢軸国の国が虎視眈々と狙っていた。

イタリアではモンテネグロを支配下に置き、ドイツはスロベニアの併合するといったことが行われるようになった。またユーゴスラヴィア王国自体もイギリス軍のクーデターやナチスドイツの侵攻もあり、国王らが亡命するなど、「滅亡」というに相応しかった。そこでできたのがパルチザンである。ユーゴスラヴィアの地域で抵抗を行った、これが本章の「パルチザン戦争」である。

第四章「戦後国家の様々な実験――連邦制・自主管理・非同盟」

第二次世界大戦終戦後は、ユーゴスラヴィアは新たな国となった。「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」の誕生である。ティトーが自ら指導者となり、国としての体をなそうとしたのだが、やがて冷戦の最中に民族間の不一致がだんだんと進んでいった。

第五章「連邦解体への序曲」

もっともこのときの社会主義連邦共和国はソ連に親密であったが、当時のソ連指導者であったヨシフ・スターリンがティトーに対する不信感が強まり、決別した。その後もティトーによる統治が行われていったのだが、そのティトーが1980年に逝去。この逝去を境に社会主義連邦共和国解体へと進んでいった。その解体が表面化したのが冷戦終結後の1992年のことであり、その時には「ユーゴスラヴィア連邦共和国」となった。

第六章「ユーゴスラヴィア内戦の展開」

しかしその連邦共和国ができた前年にあたる1991年からはユーゴスラヴィア内戦(ユーゴスラヴィア紛争)が起こった。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、マケドニアなど様々な地域で紛争が起こり、2001年にはNATOや国連の介入により収束。2003年には連邦共和国が解体され、いくつもの独立国ができあがった。

西欧の近現代史の中で歴史にさらされ、戦禍に見舞われた地域を連想するとどうしてもユーゴスラヴィアを浮かべる。現在も独立に対しての争いは続いている。よく歴史のなかで、ユーゴスラヴィアにあるバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と言われているが、その火薬庫は今もなお燻り続けている。

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