日本には生前、もしくは没後に位階とよばれる位に叙勲されることが多い。もちろん功績などのことが考慮されるケースもあるのだが、その功績の中で最高の位として「正一位(しょういちい)」がある。実際に正一位に授与された人は何人かいるのだが、ほとんどが没後叙勲で中には没後数百年してやっと授与された人もいる(織田信長や豊臣秀吉がその一例)。しかしこの正一位の没後叙勲でさえここ100年以上授与がなく、もっと言うと生前授与された人は、718年の養老令による位階の整備がされてからわずか6人しかいない。
ここで本書の話に入る。その正一位の生前授与された数少ない一人として藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)がいる。奈良時代の公卿として栄華を極めた一方、最晩年には失脚し、叛乱を起こすも捕らえられ、斬首される最期を迎えた。その藤原仲麻呂の生涯と時代背景を追っているのが本書である。
第1章「藤原四兄弟の死―天然痘流行と政治危機」
藤原仲麻呂は706年(慶雲3年)に生まれ、書物を次々と読破する少年だった。元々藤原南家の始祖の系統であり、名家であった。また父だった藤原武智麻呂の兄弟には藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の3人がおり、「藤原四兄弟」と呼ばれ、政権を担うほどの後ろ盾も存在していた。
しかしその政権も天然痘の流行により、父を始めとした四兄弟全員が病死し、後ろ盾もなくなり、藤原氏の勢力も後退した。その後退した藤原氏の復興を目指していたのが藤原広嗣だが、人事的な不満と藤原氏再興から藤原広嗣の乱を起こした。しかしながら官軍に制圧され処刑された。
そして仲麻呂の話に戻る。天然痘などによる藤原氏の勢力後退により変わって権力を握ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)だった。
第2章「叔母光明皇太后の寵愛―聖武から孝謙天皇へ」
その藤原氏の実権を担っていた後ろ盾として光明皇后(聖武天皇の妻、後に光明皇太后)が存在しており、なおかつ仲麻呂も光明皇后の寵愛を受けていた。仲麻呂は橘諸兄政権下の中で徐々に昇進を受け、やがて橘諸兄に近い立場にまで上り詰めた。また聖武天皇の次に即位した孝謙天皇の信頼も厚く、そのことにより政治基盤がつくられた。
第3章「恵美家政権の確立へ―淳仁天皇擁立まで」
徐々に仲麻呂が台頭していく中で不満分子もくすぶり始めた。その一人として橘諸兄の息子である橘奈良麻呂がいた。父と対立した仲麻呂に強い不満を持ち、密かに排除をが策したが密告され、逮捕され、一族もろとも滅んだ。
やがて天皇の時代も淳仁天皇へと移っていき、独自の政治を確立するようになっていった。
第4章「仲麻呂の政策―七年間の大変革」
その仲麻呂の政策を詳細に取り上げているのが本章である。儒教政治や遣唐使などの活用、尊号奉献も含め、宗教や教育、政治など多岐にわたった。
また新羅との出来事から征討作戦も企てたが、かねてから蜜月だった孝謙天皇、後に孝謙上皇との対立も生まれるようになった。やがてそこから傾き始めるようになった。
第5章「藤原仲麻呂の乱―天平宝字八(七六四)年」
乱のきっかけの一つとして光明皇太后の崩御があった。それが大きな原因と鳴、政権としても大打撃が生じるようになり、政策面での反対派が出てき始め、さらには孝謙上皇との対立も深まっていった。さらなる軍事力および権力を握ろうと藤原仲麻呂の乱を起こしたが、あたかも将棋倒しのような敗戦が続き、権力は失墜。官兵に捕らえられ処刑され、59年の生涯を終えた。
藤原氏が隆盛を極めたのは平安時代ばかりではなく、飛鳥時代に大化の改新で以て中臣鎌足が「藤原鎌足」となり、その次男になる藤原不比等の時から「藤原氏」は始まり、政権を担うようになっていった。後に藤原氏は四家に分かれたが本書で紹介した藤原仲麻呂は藤原南家にあたる。よくある平安時代以降の栄華は藤原北家を意味しているが、本書はあまり知られていない藤原南家における奈良時代の栄華を知ることのできる一冊と言える。
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