オッペケペー節と明治

時代において様々な「流行」が存在するが、本書で紹介するのは「オッペケペー節」と呼ばれるものである。今となっては奇天烈な印象を持たれるが、実はつくられたのが1889年(明治22年)であり、そこから上方落語の舞台から東京へと広がり、やがて全国に広まった歌である。またわずかにではあるものの、音源・動画も残っているほどである。

なぜ「オッペケペー節」が生まれ、関西を起点に流行していったのか、そしてそれにまつわる明治時代の背景についてを追っている。

第一章「「オッペケペー節」関西で生まれる」

冒頭で1889年につくられたとあるが、それは川上音二郎が「作詞」として書き残したときであり、それ以前に上方三代目桂藤兵衛二世曽呂利新左衛門(当時は桂文之助と名乗っていた)らが大喜利などで歌われたのが始まりとされていた。それが関西で広がりを見せ、曽呂利新左衛門門下の川上音二郎が作詞。寄席でも人気となった。

第二章「「オッペケペー節」東京公演で人気沸騰する」

上方でオッペケペー節が流行するも下火となったのだが、その後川上音二郎自身が横浜公演でオッペケペー節が歌われたのを機に、東京を含めた関東にて次々と歌われ始め、人気沸騰した。

第三章「「オッペケペー節」東京市中で大流行する」

オッペケペー節は滑稽本としてもつくられるようになり、東京市中で流行するほどにまでなった。第一章では寄席の余興の一つとして扱われたオッペケペー節だが、川上音二郎の公演となると「書生芝居」や「壮士芝居」の一つとして扱われるようになった。

第四章「「オッペケペー節」全国で歌われる」

特に「壮士芝居」として「オッペケペー節」が歌われるようになり、全国で上演するようにまでなった。また滑稽本も全国で売られたこともあり、全国で「オッペケペー節」が歌われるようにまでなった。

第五章「「オッペケペー節」と声の文化」

オッペケペー節は元々は落語家が大喜利などの余興で歌われたため声の文化であったが、川上音二郎が作詞し、なおかつ滑稽本にまで残したことにより、「文字」としての文化になっていき、後世でも扱われることがある。

オッペケペー節の歌詞を見ると、明治時代における文化、さらには世相もまた見ることができる。また風刺も利いており、一つの「文化」として栄えたと言っても過言ではない。滑稽な歌であるが、そこには明治時代における文化の変化を象徴する「歌」があった。

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