人はどう死ぬのか

よく教育の中で「デス・エデュケーション」というのを聞く。これは「死の準備教育」を表し、アメリカでは1960年代から取り入れられた教育手法である。日本でも1980年代に提唱され始めたのだが、「死」による教育を暗にタブー視したこともあってか、デス・エデュケーションはなかなか浸透しなかった。

もっとも本書もまたデス・エデュケーションの一つとしてどう「死ぬ」のかを取り上げている。

第一章「死の実際を見る、心にゆとりを持って」

死の間際はどうなっているのか、それは実際に体験してみないとわからない。もちろん死の淵にいたことがあり、後に生還した体験談もあるのだが、その話を聴いてみると眉唾ものと穿った考えを持ってしまう人もいるかもしれない。必ず死の間際と呼ばれる場面はやってくるのだが、その場面はどう見つめていくかを取り上げている。

第二章「さまざまな死のパターン」

今となっては延命治療もあれば、後に取り上げる安楽死尊厳死もある。自分自身で死をどのように選ぶかもまた意志の一つであり、よくある終活の一部としてある。

第三章「海外の「死」見聞録」

では海外ではどのように「死」と向き合い、立ち会っているのか、そのことについてサウジアラビアやオーストリア、ハンガリーやパプアニューギニアを事例に取り上げている。

第四章「死の恐怖とは何か」

人によるのだが、多くの人は「死」に対する恐怖心はある。その「恐怖」とはどこにあるのか。また逆に「死ねない」恐怖もあるという。死ぬこと、逆に死ねないことへの「恐怖」の要因についてを分析しているのが本章である。

第五章「死に目に会うことの意味」

親族をはじめ、縁の深い方々の死に目に会うということもある。その「死に目に会う」ことは何を意味しているのか。それこそ「死」に直面することにおける一つの答えがあるという。

第六章「不愉快な事実は伝えないメディア」

メディアはある種の拡声器であるが、同時に「変」声器とも言える。声などを都合良く変えることを意味している。というのはメディア側の都合によって切り取ったり、あえて伝えなかったりすることが往々にしてある。

第七章「がんに関する世間の誤解」

今となっては部位にもよるが治る病気と言われている「がん」。しかしがんの状況によっては余命宣告を受けることもある。そのためがんと付き合いながら生きていく、さらには残りの人生をどのように謳歌していくかがカギとなっていく。

第八章「安楽死と尊厳死の是々非々」

いくつかの本でも取り上げている「尊厳死」「安楽死」についてである。それぞれ意味は異なるが、尊厳死に関する事件は日本のみならず海外でも実際に起こっており、国によってはそれらを法律で認めているところもある。また本章ではNHKドキュメンタリーにてあった尊厳死についても指摘している。

第九章「上手な最期を迎えるには」

人は誰しも「最期」を迎える。その最期はどのように迎えるべきか、それが「終活」にも大きく関わってくる。それは本書のタイトルにある「どう死ぬのか」の根幹でもある。

誰もが必ず訪れる「死」。しかしどのように「死ぬ」かを考える事は、ここ最近「終活」にて言及があったのだが、人の「死」と自分自身の「死」を考える事はなかなかない。終活やデス・エデュケーションといったものもあり、それを説いた本もいくつもあるが、どのように死を迎えるべきか、それを考える要素として本書がある。

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