明治日本はアメリカから何を学んだのか 米国留学生と『坂の上の雲』の時代

元々江戸時代における「鎖国」の時代は特に諸外国と一切関わりが無かったとは言えない。当時の「清王朝」だった中国大陸とオランダのみ交易が認められ、長崎の出島を玄関口に貿易などの交易が行われた。

しかし1853年、アメリカの蒸気機関船「ミシシッピ号」をはじめとした4隻の船が浦賀沖に来航した。それ以前にも琉球小笠原に来航したが、特に幕末の始まりとして浦賀沖の来航が有名である。このときにペリーから開国に関しての親書を送ったとされているが、実質的に開国に迫ったとされる。(さすがに以下の動画のようにはなっていないが)

それはさておき、この開国からアメリカなどの西洋の文化が次々と取り入れられ、かつアメリカなどの国々へ留学する人も続出した。その方々はアメリカにて何を学び、日本の近代化に役立てたのか、そのことについて取り上げている。

第一章「幕末留学生が目指したアメリカ」

黒船来航以前にも日本人がアメリカの地で学ぶ、働くといった動きもわずかにあった。その代表的な人物としてジョン万次郎(中浜万次郎)がいる。もっとも万次郎が日本人として初めてアメリカの学校に通い、勉強した人物でもある。

幕末になると新島襄をはじめとした人びとがアメリカに渡り、アメリカにて学問を培っていった。

第二章「「ロー・スクール」黄金時代」

今でこそ、日本の大学でも「法科大学院(ロー・スクール)」が数多く存在している。しかし本章で言う「ロー・スクール」はあくまで大学のところであり、アメリカにおける法律学を勉強し、大学創立を行う、あるいは法律の参考とする人びともいた。

第三章「科学技術、人文科学、軍事学」

そして近代化を図るにあたり、法律学を始め、本章のような学問・技術を研鑽していき、日本に持って帰ることにより、明治時代における「富国強兵」へとつながっていった。

第四章「「神の国」を求めて」

アメリカで勉学を積み、日本で国家や教育機関の形成などに役立てた人物は少なくない。また学んできたものをもとに日本とアメリカの架け橋になった人もいる。本章ではその「架け橋」になった人々を紹介している。

第五章「「集大成」としての日露戦争」

アメリカで学問・技術を学び、日本でも構築していったが、その集大成として本章では日露戦争を取り上げている。ポーツマス条約を結び、日本の勝利となったが、アメリカの仲介を引き出すための交渉はもちろんのこと、日本を欧米諸国と肩を並べるほどにまで成長させた人物たちが築き上げたものがそこにあった。

第六章「悪化する日米関係に抗して」

やがて時代とともに日米関係はギクシャクしていく。第一次世界大戦こそ、日米関係は良好だったものの、次第に悪化していき、大東亜戦争へと発展して行った。その流れに抗した人々もいた。そう、アメリカに留学した人々である。その人々はアメリカに日本の文化などを伝える、あるいは開戦回避に向けて奔走したが、止められなかった。

日本の近代化は開国とともに進んでいったことは紛れもない史実である。しかしその史実の中にはアメリカを始めとした国々へ留学、あるいは洋行し、近代的な技術・学問を取り入れて、日本に持ち帰り、日本流にアレンジメントした足跡がある。その中でもアメリカにて学び、取り入れた足跡が本書にて映し出されている。