柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺

元々柔術は日本の古武道の代表格の一つであり、素手で行う「徒手武術」として挙げられる。それが発展し「柔道」「合気道」などへと発展して行った。また柔術には様々な流派が存在しており、明治の文明開化以降は海外にも柔術が広がりを見せ、海外から生まれた柔術もある(サンボブラジリアン柔術もその一つとして挙げられる)。

本書はその中でも20世紀に入ってアメリカにて柔術が伝えられ、一大ブームにまで発展したのだが、そのあらましを取り上げている。

第1章「熱狂のとば口―ジョン・オブライエンと20世紀初頭のアメリカ」

アメリカにおいて柔術を体言的に輸入した人物としてジョン・オブライエンがいる。文字としての「柔術」かそれ以前にも怪談で有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や日本研究者のウィリアム・グリフィスがあったのだが、実際にアメリカの地で初めて柔術を行ったのがオブライエンである。

そもそもジョン・オブライエンは「外国人警察」の役割で日本の長崎にて働いていた。その仕事の一環として井上鬼喰(いのうえきしょく)にて柔術を学んだのだが、1900年に母国であるアメリカに戻ると、デモンストレーションとして柔術を行った所からアメリカにおいて「柔術」が伝わっていった。しかも写真によると柔術のデモンストレーションの他にもダイエット効果を挙げるような広告もあった。

第2章「柔術教本の秘密―アーヴィング・ハンコックと「身体文化」」

冒頭にてウィリアム・グリフィスやラフカディオ・ハーンが柔術に関して言及したとあるが、教本ではなく、あくまで日本文化における中の「柔術」を取り上げているに過ぎない。しかしこのオブライエンが柔術を広めたことにより、アメリカにおける柔術の興味が出てき始め、1903年頃からは柔術教本なるものも出てきた。その主たる人物としてアーヴィング・ハンコックがいる。ハンコックの柔術教本により、アメリカにて柔術を行う人も急速に増えていった。

第3章「柔術家は雄弁家―東勝熊と異種格闘技試合を巡る物語」

今となってはごく自然にある「異種格闘技試合」である。プロレスでもアントニオ猪木がいくつもの異種格闘技戦を行ったのは有名な話である。その異種格闘技試合が大昔にもあった。柔術の達人と自称していたスズキ・アラタと、当時の人気プロレスラーだったジョージ・バプティストの試合が1905年3月、セントルイスにて行われた。盛り上がりを見せたかというとバプティストがあっさりを勝利する呆気ない試合だったという。

同年行われた東勝熊とプロレスラーであるジョージ・ボスナー異種格闘技試合もあったが、本章では後者の東・ボスナーの試合が中心となっている。

第4章「柔道ファンタジーと日露戦争のリアリズム―山下義韶と富田常次郎」

柔道もまた1902年にアメリカにて渡るようになった。後に講道館柔道十段を賜った山下義韶(やましたよしつぐ)が渡米し、柔道を普及した。しかもその山下も同年の3月にプロレスラーのジョージ・グランドと闘い、こちらは山下が押さえ込みで勝利した。それを観戦していた当時の大統領であるセオドア・ルーズベルトに認められアメリカ海軍兵学校の教官にもなった。

当時山下は「講道館四天王」の一人としてあげられるが、もう一人に本章で紹介する富田常次郎がいた。富田はホワイトハウスにて柔道の試合を行うもアメリカの選手に敗れてしまう。それを間近で見た前田光世がアメリカに残り、後にブラジルへと渡る人生を送ったきっかけにもなった。

第5章「「破戒」なくして創造なし―前田光世と大野秋太郎の挑戦」

そもそも柔術の発展として柔道が成り立っているのだが、柔道と柔術に関しての議論はアメリカでも行われた。また柔道における他流試合、あるいは異種格闘技試合も行われたのだが、講道館の館長だった嘉納治五郎は自ら認めた試合以外は認めておらず、あまつさえ「見世物」としての試合を禁止する通達も出した。しかしその通達を破った前田光世や大野秋太郎は異端と見られながらも新しい柔道のあり方を模索しながら海外への普及に励んでいった。

柔術、さらには柔道とアメリカへ渡り、伝わっていったのは紛れもない史実である。また今日のアメリカにおける柔術・柔道や1900年に柔術が初めて行われたことが起点としてある。その起点と辿ってきた歴史が本書にてよくわかる。

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