最後の参謀総長 梅津美治郎

靖国神社には戦争などによりなくなった方(戦死者、殉難者とも呼ばれる)が約246万柱祀られている。その中で14柱はA級戦犯にて東京裁判に掛けられ、絞首刑、あるいは獄死した。そのうちの一人として本書は「無言の将軍」と呼ばれた梅津美治郎を取り上げている。

第一章「「軍人勅諭」の子」

梅津美治郎は1882年1月4日、ちょうど明治天皇が陸海軍軍人に「軍人勅諭」を下賜した日と全く同じである。それ故に本章のタイトルとなっている。大分県中津市に生まれるも、親の再婚によって名字が変わるなど、複雑な境遇となった。陸軍の学校に入り、陸軍大学校には首席で卒業した。

第二章「動乱の時代に――第一の後始末、二・二六事件」

梅津美治郎の軍人遍歴は一言で言うと「後始末」が中心だった。最初の「後始末」として称されたのが二・二六事件である。この事件の前に陸軍内では「皇道派」「統制派」の激しい対立があった。その対立の中には奇しくも同期であった永田鉄山小畑敏四郎も対立の主軸にあった。その対立が激化し、二・二六事件が勃発する。

当時梅津は仙台の第2師団長だったのだが、各師団長の話し合いを行い、断固討伐に踏み切った。その討伐の功績により陸軍次官に就任した。その姿勢が昭和天皇に評価され、陸軍大臣推挙の際に昭和天皇が「陸相は畑(俊六)か梅津にすべし」と発言するほどだった。

第三章「国境の司令官――第二の後始末、ノモンハン事件」

陸軍次官を経て、1939年に関東軍司令官となった。二つ目の「後始末」の始まりである。それは「ノモンハン事件」だった。関東軍、特に辻政信の立案で行い、中央の統制を破って事件を起こしたものである。その事件を機に梅津は関東軍参謀らの粛清人事を見事に完遂した。

第四章「最後の参謀総長――最後の後始末、終戦」

やがて日中戦争、そして大東亜戦争に発展。東条英機の後任として参謀総長に就任した。1944年の話で、終戦後参謀総長をはじめとしたポストが廃止となったため、最後の参謀総長となった。最後の後始末として降伏文書の調印だった。当初は一度断るも、重光葵とともに昭和天皇から説かれ、調印式に出るに至った。それ以前にも当時の陸軍大臣だった阿南惟幾(終戦当日未明に自決)と陸軍内のクーデターの牽制や終戦工作を行うなど、終戦に向けて間接的ながら尽力した。

終戦後梅津はA級戦犯にて東京裁判を受けることとなった。一度東郷茂徳の発言に対して声を荒げることはあったが証言台に立たず、沈黙を守った。最終的な判決は終身禁固刑だったが、このとき梅津はがんに罹っており、服役中に没した。1949年1月8日、享年は68歳だった。

梅津美治郎は武功こそ少なかったものの、「後始末」にまつわるものが中心だったと言える。本書で紹介された3つの「後始末」は後の戦前~戦中の歴史に大きな影響を与えたのは間違いない。本書はその足跡を垣間見た一冊であった。