三条実美-維新政権の「有徳の為政者」

先頃安倍晋三の国葬が営まれたのだが、国葬に関する物議もあった。もっとも安倍晋三が逝去に際し、大勲位菊花章頸飾と大勲位菊花大綬章の授与および「従一位」に叙することも決定した。

この「従一位」は日本における栄典の「位階」を表している。ちなみに「従一位」より下は「正二位」「従二位」「正三位」という順番となる。

では「従一位」の上はあるのかと言うと、「正一位」がある。しかしながら叙した人物は限られており、没後追贈で最後に叙されたのは織田信長(1917年追贈)であり。生前叙位を受けたのは日本でわずか6人しかいない。そのうちの一人が本書で紹介する三条実美(さんじょうさねとみ)である。公卿の出身であり、明治維新以後に右大臣・太政大臣、さらには暫定内閣も組閣した人物画どのような人生であり、明治時代を紡いでいったのかを取り上げている。

第一章「公家の名門に生まれて」

「三条家」は平安時代中期に右大臣として活躍した藤原公季(ふじわらのきんすえ)を祖として、右大臣や内大臣を多く輩出してきた。その名門に実美は「三男」として生まれた。それ故か、嗣子ではなく庶流の養子となるはずだった。しかしながら長男・次男と夭折したことにより、嗣子となり、正式に三条家を継ぐこととなった。

第二章「尊攘派公卿としての脚光」

実美が活躍し始めた時代はちょうど幕末の時代であり、日本が近代化される手前の「激動」と呼ばれる時代であった。その中で尊攘を主張し続け、尊攘派公郷とも呼ばれ、脚光を浴びた。幼い頃から儒者・富田織部の教育を受けたことが影響としてある。

第三章「長州・太宰府の日々」

1863年に「八月十八日の政変」が起こった。背景として桜田門外の変により大老・井伊直弼が殺害され、江戸幕府の威信が低下し、尊攘派と攘夷派との対立が表面化したことにある。この政変により、三条ら急進派公家7人らが長州へと下った(七卿落ち)。その後実美をはじめとした公郷たちはさらに太宰府へと下り、幽閉される状況となった。

第四章「明治新政府の太政大臣」

やがて大政奉還が行われ、明治維新となったとき、政変に対する罪は赦され、復位することとなった。1871年に「太政大臣」となり明治天皇の代行者として政治を主導することとなった。しかしながら岩倉使節団が帰朝してから、征韓論に関する対立にて起こった「明治六年の政変」、さらには島津久光との対立と難しい局面に直面することの連続となった。時には体調を崩し、さらには弾劾に遭うこともあった。

第五章「静かな退場―大政官制から内閣制へ」

やがて政府は制度改革を行い、現在も続く「内閣制」を敷くようになった。太政大臣もこの頃に廃止され、実美は「最後の太政大臣」となった。その後は内大臣として明治天皇の脇に控えるなど、形式的には位の高い地域にいたのだが、目立った活躍は行わなかった。唯一あるとすれば1889年の10月~12月の間、黒田清隆の内閣総理大臣辞任から山縣有朋の内閣総理大臣就任までの「暫定内閣」を指揮した所のみである。輔弼する役割を行い続けてきた功績もあってか、1891年2月17日にインフルエンザにより病床にいた実美を明治天皇が自ら見舞い、自ら正一位叙位を告げた。その翌日三条実美は薨去した。

歴史的な評価として三条実美は決断力に欠く、あるいはカリスマ性が無いと言った批判もあったのだが、当時は幕末から明治にかけての「激動」と呼ばれた時代であり、舵取りが非常に難しかった側面もある。その中で「バランサー」の役割も果たしていた面もあり、長短両側面での評価が難しくなっている。もちろん歴史的な評価はこれからも行われるものなのかもしれないと本書の足跡を読んでそう思わざるを得なかった。