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哲学・宗教

キリスト教とシャーマニズム ――なぜ韓国にはクリスチャンが多いのか

韓国にも色々な宗教があるのだが、中でもキリスト教が多く。カトリック・プロテスタントの違いはあれど全人口の約3割を占めている。韓国、もとい朝鮮半島においてキリスト教の宣教師が初めて朝鮮半島の地を踏んだのはちょうど文禄・慶長の役の時で、キリシタン大名の小西行長とともに、イエズス会の司祭が渡ったことがはじまりである。その時に連行した朝鮮人女性が小西行長の猶子となり、キリスト教の洗礼を受けて「ジュリアおた […]

AI時代の労働の哲学

「労働観」や「労働哲学」の変化は時代と共に変わってきている。特に新型コロナウイルス感染拡大により、労働のあり方は急速に変わっていった。それ以前にも在宅やリモートを含めた「テレワーク」の概念の誕生と拡大によること、さらには日本・海外に関しての労働的な事故・事件などもあったことで、変化をしている。日本ではできているかどうかは不明だが「働き方改革」が印象的である。 さらに働き方というと技術革新によるとこ […]

こころと身体の心理学

心と身体はバラバラのように見えて、実は一体となっていることが多い。なぜ「多い」と表現したのかというと、身体と心がバラバラになる人、あるいは身体とアイデンティティがバラバラになる人もまれにいるためである。 心理学というと見えないようでいて、実は身体にも関係してくるものもあるため、本書は心と身体の両方とで取り上げている。 第1章「人それぞれの身体感覚」 「心理学」というと色々な学問があり、特に「認知心 […]

ジャック・デリダとの交歓 パリの思索

ジャック・デリダは20世紀~21世紀にかけて活躍した現代哲学を代表する人物の一人である。フッサール現象学から出発し、ハイデガーの哲学を批判的に考察を行った人物としても有名である。 本書の著者は言語学・哲学者であるが、フランス留学を長らく行っており、その中で実際にジャック・デリダとの交流があった。その交流の中で著者自身が見てきたデリダの哲学とは何かを綴っている。 第1章「出会いから最初の発表まで」 […]

問いの立て方

「問い」というと、テストなどの問題を連想してしまうのだが、本書で言うところの「問い」は、様々な研究において、考えるべき「命題」という意味合いが強い。特に哲学の側面ではこの「問い」に対して、どのような答えを結びつけたら良いのかがあるため、答えを良くする前に、「いい問い」と呼ばれる、考察や回答の側面で答えやすい、あるいは深い答えを導き出すための「問い」を出すことが求められる。 そう考えるとある種の「質 […]

隠された奴隷制

すでに「奴隷制」そのものは、欧米では19世紀、他の地域でも遅くとも20世紀には完全に廃している所がほとんどであり、今となってはほとんど存在しない。しかし紀元前以前から階級制や身分制といったものがあり、その中でも最も下の所で「奴隷」と言う存在があった。また海外で植民地化し、その非植民地の民たちを奴隷として扱う国も存在した。 ではこの奴隷制を政治思想、あるいは経済思想のなかでどのような定義をなされてき […]

男らしさの終焉

「男らしさ」「女らしさ」とはどこから来るのだろうかという疑問を持ってしまうのだが、そもそも男性でも「女らしい」ような人もいれば、逆に女性でも「男らしい」人もいる(中には「女子プロレス最強の男」と名付けられた女子レスラーもいる)。 そもそも性的な「らしさ」は死語になりつつあり、とっくの間に終焉しているような気がしてならないのだが、そもそもどこの面で「終焉」と著者は思っているのだろうか、本書はそのこと […]

やってもやっても終わらない名もなき家事に名前をつけたらその多さに驚いた。

一人暮らしをしていると、否が応でも「家事」をしなければならない。炊事・洗濯・掃除など本当の意味で「やってもやっても終わらない」。もっともこの書評を行いながら、家事をやっているため、どっちが「ながら」やっているのかわからなくなる。 それはさておき、一人暮らしであればそれ程でもないにしても、複数人の家族となると、その規模は人数分、さらには住んでいる家の分だけ大きくなる。 この終わらない「家事」をコピー […]

東アジア仏教史

仏教は東アジアにおいて生まれ、育っていったものである。もっとも仏教の歴史は2500年以上も前に釈迦(ゴータマ・シッダールタ)がインド北部で悟りを開き、開祖したことから始まる。釈迦が仏教を開き、インドや東アジアを通して伝播し、確立されていったのか、本書ではその歴史を紐解いている。 第一章「インド仏教とその伝播」 初期の仏教はインドで育ったことから「インド仏教」と呼ばれるものがものである。釈迦が入滅後 […]

きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる

「手話」が今では広がりを見せているのだが、本書の舞台である韓国でも同じである。社会的には広まってきているが、政府も公式言語として法律を定めるようになるなど、動きを見せている。 本書は韓国における聾者(ろうしゃ)の関わりを映し出したエッセイである。 一章「私はコーダです」 著者が自らであった女性、その名は「コーダ」と名乗った。彼女自身、その名前を知ったのは21歳になってからである。生まれながらにして […]