情報とメディアの倫理

情報媒体やメディアというのは絶えず進化している。しかしその中には倫理という大きなジレンマも存在するというのは周知の通りだが、そのメディアや情報における「倫理」というのは一体何なのか。それを本書が考察してくれている。

まず序章ではこの倫理の射程について書かれているが、まずここで整理したいのが「情報」「メディア」の定義についてである。

普段ニュースや読書などで取り入れるものは「情報」であるが、その情報の範囲も極めてあいまいである。その情報でも何を得たのかという量的な概念から成り立つこともあれば詳しい情報が手に入ったという質的な概念があるが、形式的には量的なところを情報であるととらえている。ただ情報の本当の概念はまだまだ混迷にあるため形式的なものにとどめておく(ちなみに本書でもここでとどめている)。

次に「メディア」である。メディアというと「新聞」「テレビ」「インターネット」が真っ先に思い浮かぶ(もっと言うと「雑誌」もそうだろう)。しかしこのメディアというのは情報伝達を行うためのあいたいとはっきり言うがそれをどのようにして伝えるのかはそれぞれ違う。最近出たメディアの「インターネット」は、新聞やテレビなどと違い双方向型である。そのためピンキリはあるもののお互いに議論をしつつ情報を得ることができる。

しかしこの「メディア」という語源を考えてみるとラテン語で「中間の(medium)」という言葉から派生語である(pp.8〜9より)。情報に差が来ないように万遍なく媒介するのがメディアである。

漠然としたものであるが、実際にこの2つのことを的を絞って話す(書く)ということは非常に難しく、時代とともに意味合いが変わっていくだけに根本的な意味をなさないのではないかと私は思う。

さて第1部は「知識と倫理」である。まず1章は「知識の必要性」から始まり2章では「その知識に対する倫理の必要性」について考察している。

第2部は「データの倫理」であり、3章では「電子化社会とその原則」、4章では「電子化された社会と法制度」である。ここでは結構タイムリーなところもあるため重点的にみていく。前述のとおりインターネットの普及によってメディアは大きく変わっていった。

新聞やテレビなどのメディアはほとんど単一方向(はがきによる投稿でようやく双方向になるが)であるが、インターネットは双方向の妨害になる条件がそろっておらずむしろ自分の得た情報を公開し、その中で討論することも可能になった。その意味では創作者や受容者という概念が失われたという悪い意味としてとらえられることもできる。

さらにインターネット社会になるにつれて法の整備も急ピッチで進められており、法規制の強化は今も叫ばれている。当然ネットでも倫理というのは例外なく扱われるが、そもそも法規制によってよくなったのだろうか、倫理やリテラシーをどのようにして身につけさせたらいいのかという課題は山積している。

第3部は「メディアの倫理」であり、6章は「メディアと性」がある。

第4部は「ジャーナリズムと倫理」であり、7章は「ユビキタス社会と個人情報保護法」、8章は「マスコミと職能倫理」である。
今日の報道を見ると日本の新聞やTVのジャーナリズムに疑問を呈することが多い。それに「個人情報保護法」、もしくはその法律の過剰解釈によりジャーナリズムも揺らいでいる。しかしその個人情報保護法とジャーナリズムというのは別個として考えなければならないが、それと混同する人も少なくない。しかし混同してもいいというのであれば今のメディアスクラムや報道による風評被害は何なのかと問うてみたくなる。そこにメディアの倫理は成り立つのだろうか。そこに平等はあるのだろうか。

第5部は「情報通信革命と倫理」であり、9章は「情報通信革命と社会」、10章は「ネットワークセキュリティーと社会」である。
情報の発達とともに倫理というのは変わっていくのかもしれない。しかしその「倫理」の根幹は不変なものでありそれに変わっていくのはミクロの部分である。セキュリティーやリテラシーが叫ばれているが果たして今の状況で叫んでも効果はあるのだろうか。そして真のセキュリティーとは、リテラシーとはということも考えなくてはいけない。過剰に反応しすぎると進

化は止まり、進化を重視しすぎるとリテラシーは崩壊する。

「倫理と進化」

情報に限らずこれの両立は永遠の課題と言えよう。

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