近所がうるさい!―騒音トラブルの恐怖

「ご近所様」という言葉はもはや「死語」なのだろうか。
「近所迷惑」になるようなことがもはやニュースで取りざたされるほどの「事件」になることも最近では多くなってきている。「近所迷惑」という訳でも無いが、「騒音被害」としては直近でも羽田空港の再拡張により千葉氏への騒音苦情が大幅に増えたというニュースがあった。「ご近所様」と呼ばれる時代の中で様々なことを共有したり許しあった時代があった。たとえそれが「騒音」であったとしても。

そのわずかな「騒音」さえ許されないようになったのはいつ頃なのだろうか。そしてなぜ隣人の「騒音」さえ許されなくなったのか、本書は過去に起こった騒音トラブル事件をもとに分析を行っている。

第1章「すべてピアノ殺人事件から始まった」
「ピアノ殺人事件」は最近の事件ではない。1974年に発生した事件であり、殺人をした犯人は死刑が確定し、死刑囚となった(ただ、現在でも死刑執行された記録は無く、存命かどうかも不明である)。
約30年前にも前の話であるが、現在でも過去でも同様の事件は起こっている。海外に目を向けてみると、当時ソビエト(現:ロシア)の世界的ピアニスト、スタニスラフ・ブーニンがモスクワ市内のアパートでピアノの練習をしていたが、近所迷惑により立ち退きを余儀なくされたという。

第2章「騒音事件を引き起こす心理と生理」
「騒音事件」は近所トラブルだけではない。最近では携帯電話や音楽プレーヤーの発達により、電車やバスなどの公共交通機関での「音漏れ」のトラブルも存在するほどである。
本書は「近所トラブル」の話なのでこの話はここまでにしておいて、本章では「騒音」にまつわる心理的なメカニズムについて論じている。「騒音」がなぜ不快な感情を呼び起こすのだろうか、そしてその「騒音」にまつわる反応や苦痛について、様々なパターンで分析を行っている。

第3章「上階音が引き起こしたトラブルと事件」
「近所トラブル」といっても別に右や左といった「隣」だけではない。アパートやマンション住まいの人であれば「上」や「下」の「隣」も存在する。
その「上」や「下」の階の騒音、たとえば人の足音(とりわけ子供)によるトラブルについて事件と法律双方の観点から考察している。

第4章「無惨、近隣騒音訴訟と判決」
「騒音訴訟」といえば、もっとも有名なものでは「騒音おばさん事件」である。騒音トラブルでありながら、独特なキャラクターのせいか、インターネット上で話題を呼びフラッシュ画面や動画共有サイトでは「MAD」動画になるなどで有名になった。
それはさておき、騒音にまつわる訴訟は今も昔も起こっている。その中で顕著なのは「ペット」と「カラオケ」であり、本章ではそれらを中心に凡例を取り上げている。

第5章「騒音問題、古今東西」
「騒音トラブル」は足音や楽器の音、さらにはペットやカラオケの音ばかりではない。煎餅や麺類を食べる音でさえそれがトラブルの火種になることさえある。「騒音」とは縁遠いイメージのある「ポップコーン」までも「騒音トラブル」の火種になってしまうというと、いよいよ騒音を意識して食べられるものが全くないほどになる。
本章ではその「騒音」について西洋と日本の「音」にまつわる文化、さらには諸外国の騒音問題への意識についても分析している。

第6章「騒音トラブル・そして解決へ」
おそらく「騒音問題」は人間との生活を行っていく上で「無くならない」。騒音に関する規制や法律は年々厳しくなっている。それをさらに規制することで解決をすることはほとんどない。むしろ根本にあるのが「他人への関心」の薄さにあるのでは、それがカバーできない限り、いつまでたっても解決できないのではとさえ思ってしまう。

「人間は生きているから、音は出るのよ」
(上前淳一郎「狂気―ピアノ殺人事件」、及び本書p.237より)

人間だけではない、人間以外にも音を出す動物は存在する。そろそろ夏にさしかかってくる時期には蝉の鳴き声も出てくることだろう。ポップコーンの音よりもむしろうるさくなる蝉の鳴き声で蝉とのトラブルになる・・・それほどナンセンスなことも現実味を帯びることさえある。しかし「騒音」にしても許せるものと許せないものの「分別」、それを私たちは見つけるべきでは、と本書を読んで考えてしまう。「誰しも騒音を出す」という意識、それがトラブルを未然に防ぐ第一歩と言える。