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国語

発信力 頭のいい人のサバイバル術

今となっては情報を発信できる時代になってきた。もちろんそれはブログやSNSをはじめとしたものが挙げられるが、だからでこそ、文章をどのようにするか、そして力強く発信できるかが大事になってくる。著者は文章について様々な観点で指摘したのだが、その文章を派生して発信の重要性を見出し、本書にて説いている。 第1章「これからは発信の時代である」 インターネットが隆盛したことにより、発信する機会が多くなってきた […]

詩の寺子屋

学校の国語の授業などで「詩」を読むことがある方も多いようだが、実際に「詩」はどうやって書いたら良いのかわからない方も多いことだろう。しかし著者に言わせたら、 「詩を書くことは、難しいことではありません」(p.iiiより) なのだという。ある意味「コロンブスの卵」のような答え方であるのだが、どうしてそのようなことが言えるのか、具体的にどのような手法でもって詩を書けばよいのか、著者流の詩の基本、書き方 […]

五感で読む漢字

日本にはひらがな、カタカナの他に漢字も使われる。その漢字は1945字ある常用漢字の他に、1万以上もある常用外漢字もあり、ヴァリエーションが豊富である。その漢字の成り立ちもそれぞれ異なっており、漢字の使用によって表現が彩っている。本書はその漢字について「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」で成り立つ「五感」でどのようにして感じるのか、そのことについて取り上げられている。 第一章「「目」に宿る霊力」 […]

伝説の灘校教師が教える 一生役立つ 学ぶ力

「灘校」といえば、日本でもトップクラスの東大合格者を輩出している屈指の進学校としても有名である。著名な方々の中には精神科医の和田秀樹氏はもちろんのこと、現在の神奈川県知事である黒岩祐治氏などいる。灘校というと、受験勉強のための詰め込み教育を行っているというイメージを持っているのだが、本書で紹介されている著者の橋本武氏の授業は一冊の本を3年かけて読む、という超スローリーディングの授業を行っているとし […]

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私が高校の国語の授業で一番印象に残った作品は、中島敦の「山月記」という作品である。独特の物語にハマり、何度も何度も読んだことは今も記憶に残っている。その「山月記」は今となっては、色々な出版の教科書にて取り上げることが多いのだろうか。先日「国語教科書の闇」で取り上げなかった「山月記」について深く考察を行っているのが本書である。 第一章「小説「山月記」の掲載」 小説「山月記」は1942年に発表された短 […]

国語教科書の闇

日本語教育の根幹として「国語教育」が挙げられる。国語教育に使われる教科書には様々な作品が収録されているのだが、収録されている作品にはありとあらゆる「闇」というものが存在する。その作品の中身は平易なものだが、それがなぜ収録されたのだろうか、その闇を本書にて追っている。 第一章「定食化する国語教科書」 「定食」という言葉は全くといっても良いほど含蓄のいくものである。小中高と様々な出版社の教科書が世に出 […]

灘中 奇跡の国語教室 – 橋本武の超スロー・リーディング

灘中・灘高と言えば、東大・京大への輩出の多い進学校として有名である。灘中・灘高・東大もしくは京大と進学し、さらに政財界に活躍している人物も多い。 その灘中は2009年、「銀の匙」を3年間かけて読むという「超スロー・リーディング」の授業が取り上げられたことから「奇跡の授業」として話題を呼んだ。「橋本ブーム」と呼ばれるほど人気が沸騰するほどであったのだという。 本書はその「銀の匙」を取り上げた「超スロ […]

Twitterで磨く! 20代からの「国語力」

「国語力」と一口に言っても様々である。たとえば「読解力」もそうであれば「論理力」、あるいは「文章理解力」など枝葉の如く分かれる。 しかし本書における国語力は「論理力」、「論理的な思考」や「論理的な文章」を作るための力を言っている。本書ではそれらの「論理力」をつける格好のツールとしてtwitterを取り上げており、それを利用していかに国語力を伸ばすのか、について伝授した一冊である。 第1章「twit […]

数学力は国語力

一見不思議に思えるタイトルであるが、実際に考えてみると含蓄がつく。 国語において「論理的」というのは、元々数学における「論理数学」からきている。公式における証明について、様々な式をもって成り立つことを「論理」でもって明確にしなければならない。「論理的に話す」ことについても、数字や固有名詞などを入れることによって説得力が増すと言われているが、それと通底するものがあるかもしれない。 本書は国語において […]

国語教科書の中の「日本」

私たちが小学・中学・高校と学んできた「国語」。呼んで時のごとく日本語の在り方、そして日本の文学そのものを学ぶ機会としてあるのはこれまで学んできてわかることであろう。教育問題というと英語教育や「学力」というのが問われてきた。しかし戦後間もないときは「国語審議会」というのがあり、国語教育の在り方について議論された時があった。あれから数十年、日本語の変化(人によったら「退化」とも言うが)と同じように、文 […]