私が高校の国語の授業で一番印象に残った作品は、中島敦の「山月記」という作品である。独特の物語にハマり、何度も何度も読んだことは今も記憶に残っている。その「山月記」は今となっては、色々な出版の教科書にて取り上げることが多いのだろうか。先日「国語教科書の闇」で取り上げなかった「山月記」について深く考察を行っているのが本書である。
第一章「小説「山月記」の掲載」
小説「山月記」は1942年に発表された短編小説であるのだが、元々は「古譚」とよばれる短編集に収録されている作品の一つに過ぎなかった。
第二章「教材「山月記」の誕生」
その「山月記」が国語の教科書に初めて収録されたのは、1951年の時、いわゆる「戦後教育」が始まったときのことである。そう考えると、戦前から日本にあった「愛国教育」が否定され、人間性の教育が始まったときのことだった。
その要因には「検定教科書」制度に変わったことが背景にあるという。
第三章「「山月記」の授業―増淵恒吉の「山月記報告」を読む」
人間性の教育としてふさわしいのか、1956年にとある高校で「山月記」を題材にした授業が行われた。座学としての授業と言うよりも、主人公の心情や物語についての解釈などについての討論が中心であった。
第四章「「現代国語」と「山月記」―主題・作者の意図への読解指導」
現在の高校の授業では「現代国語」という科目が存在する、これは1960~1970年代に使われたこと場であるが、他に「古典」しか無かったことから「現代文」の科目として用いられた。そこでも同様に「山月記」が使われていた。
第五章「国民教材「山月記」の誕生―切り捨てるものと追究し続けるもの」
夏目漱石や森鴎外、さらには芥川龍之介といった作品が良く取り上げられる国語教科書であるが、同様に中島敦の「山月記」も取り上げることが多い。その背景には、思春期の心と「山月記」にある李徴の心の共通性が高いと推測される。
第六章「「山月記」の音声言語とナショナリズム」
「山月記」を含めた中島敦全集は色々な所で扱われている。それだけでは無く小説の枠を越え、音声教材としての「メディアミックス」も行われているのも、「山月記」の特徴としてある。
「山月記」が教科書の定番として取り上げて行った要因はおそらく「戦後教育だから」とか、そう言うもので片付けるには短絡的すぎる。もっと山月記の中身を見ると、高校生の中にある心と李徴の心が他の小説とは異なった体験をする事ができる、という感覚にも似たものがあるのかもしれない。著者は高校で国語の教諭をしていた中で「山月記」が出続けた事に疑問を持っていた、それを大学院で研究し、そして本書となって実を結んだと言える一冊である。
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