魯迅――東アジアを生きる文学

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魯迅というと「阿Q正伝」「狂人日記」「故郷」といった作品が有名であり、日本にも留学経験があることから、中国大陸・日本双方の国で愛されている数少ない作家の一人である。
作家としての魯迅、いち中国大陸の人としての魯迅、東京・仙台に留学を経験した魯迅、思想家など学者として活躍してきた魯迅、と様々な「魯迅」の顔が見える中で、本書は魯迅の生涯にスポットライトを当てると共に、どのような変遷で多くの名作を生み出してきたか、「評伝」という形で表している。

第1章「私と魯迅」
中国文学者である著者と魯迅作品との出会いについて綴っている所である。小学生の時から魯迅作品に出会っている、考えると、私も小学生~中学生の頃に魯迅の「故郷」を国語の授業で習ったことがある。最後の言葉は非常に印象的だが、これは最後に記しておく。

第2章「目覚めと旅立ちー紹興・南京時代」
さて、ここからは魯迅の人生を少しずつピックアップしている。魯迅が生まれたのは1881年。浙江省紹興市と言うところである。父も母も秀才の家庭であり、魯迅の弟も文学者や生物学者になるといった知識人の家庭だったと言える。本章では魯迅の家族との関わりについて描いている。

第3章「刺激に満ちた留学体験―東京・仙台時代」
魯迅が小さいときに日本と当時清王朝だった中国大陸との戦いがあり(日清戦争)、清王朝は敗れ、政治改革への機運が高まっていった。それと同じくして中国大陸では優秀な学者が積極的に日本へ留学するようになっていった。魯迅もその一人で、牛込で日本語を学び、仙台へ渡り医学を学んでいった。もし、そのままであれば医者として中国大陸で活躍したのだが、ある戦争映画に触れたこと、そして夏目漱石の文学に傾倒していったことにより、医者の道から文学者の道へと切り替えた。

第4章「官僚学者から新文学者へー北京時代」
日本から帰国しようとした魯迅が待ち構えていたのは、家の没落だった。その没落した一家を支えるために、臨時政府の官僚となったのだが、そこでも孫文の辛亥革命に巻き込まれることになる。そのことで政府が北京に移ったことにより、魯迅も同様に北京に移住することになった。官僚で蟻ながらも留学していたときから続いていた文学者への思いを捨てきれず、ついに文学者としての道を歩むようになった。

第5章「恋と映画とゴシップとー上海時代(1)」
しかし、改革の嵐に晒される中、白色テロが横行してきた。魯迅はその白色テロが荒れ狂う北京から上海に移住した。1926年の話である。そこでゴシップや文化を描いた作品を発表し続けた。

第6章「左翼文壇の旗手としてー上海時代(2)」
そして魯迅は「左翼」の論壇に立ち、命がけの覚悟で中国国民党を批判し続けた。主に文芸誌などで論戦を組んでいったという。

第7章「日本と魯迅」
魯迅と日本の関係は深い。第3章にも書いてあったが、魯迅は東京・仙台と日本に留学していた経験があったことも要因としてあげられる。魯迅の生前、さらには死後も様々な角度から魯迅の研究や評伝が出ている。本章では魯迅の影響を受けた、さらには実際に魯迅との交流のあった方々の考えを紹介している。

第8章「東アジアと魯迅」
本章ではさらに裾を広げて東アジア全体について魯迅の作品はどう伝わっているのかを見ている。「プロレタリア文学」の一つとして知られていること、さらに中国文学の一つとして台湾はもちろんのこと「華僑」の一つであるシンガポールなどでも読み継がれていった。

第9章「魯迅と現代中国」
そして中国本国であるが、共産党が支配し始めた時に毛沢東が魯迅を神聖化したことから始まる。魯迅は1936年、日中戦争が始まる前に逝去した。共産主義の象徴として魯迅は神聖化され、ポストモダン、さらには愛国教育の原点として読まれることが多かったため、日本とはまた異なる読まれ方をしている。

「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。」

これは魯迅が書いた「故郷」の最後にある言葉である。「故郷」は身分制度の実態を残酷なまでも見せつけ、絶望する姿を描いた小説である。
魯迅は中国大陸・日本などで激動の時代を生き抜いてきた。その中で起った「矛盾」、そして「絶望」など様々な姿を見て、作品に投影してきた。その人生はここにある、と言える一冊である。

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