ケータイ小説は文学か

ITジャーナリストの佐々木俊尚氏が書かれた「ケータイ小説家―憧れの作家10人が初めて語る“自分”」を今年の春に読んでそこから「ケータイ小説」に興味を持ち始めた。

あれから数冊ケータイ小説を読んだのだが、リアリティがあまりにも強すぎる作品ばかりだった様に思える。現在でも本書のタイトルである「ケータイ小説は文学か」の議論は絶えないが、「ケータイ小説」を読む前と読んだ後の考えは大きく変わった。

読む前は稚拙な文章でとても文学とは思えないというのが考えにはあったのだが、読んだ後ではれっきと「文学」として成り立つと考える。しかし既存の文芸作品の「文学」としてではなく、「ケータイ小説」という新たな「文学」という位置づけとしてである。

本書もあくまで「ケータイは文学である」と仮定してどのような文学として位置づけられるか、もしも「文学」としたらどのような特徴を持っているのかについて考察を行っている。

1.「ケータイ小説と文学」
「ケータイ小説」は簡単に言えば「携帯電話で読むための小説」であり、何もリアリティあふれる物、もしくは女子高生などの若者向けの文学作品という括りではなかった。新しい時代小説やSF小説が携帯電話で読める物であれば「ケータイ小説」と言えるのだが、今となっては一つの文学として「ケータイ小説」という括りとなった。
「ケータイ小説」が出始めた頃は「携帯電話」で読むのが主流といわれてきたが、「Deep Love」が紙媒体で発売されてからは紙媒体が中心となっていってからはもはや「携帯電話」で読むことだけが、「ケータイ小説」では無くなってしまった。

2.「ケータイ小説とリアリティー」
「ケータイ小説」は著者、もしくはその周りの人の実体験をそのままに書いたり、もしくはそれを基にしてフィクション形式にした物である。そのためかリアリティーが非常に強く、あたかもその場にいるかのような錯覚に陥ってしまう。「ケータイ小説」が誕生したのも私が高校生の時だったのでなおさらその感覚が強く残ってしまう。

3.「「新しい国語教科書」のモラル?」
「国語」としてのモラルを語る前に、私の高校時代について少し書いておきたい。私の高校では国語の授業に入る前に読書時間を約10分とっている。その中で様々な本を読んで、読破したら感想を書いて提出するものであるが、その中で「Deep Love」といったケータイ小説や「世界の中心で愛を叫ぶ」が多かった印象があった。他にも夏休みには読書感想文があり、取り上げる物もそれが多かった。ちなみに私は一貫して課題図書しか取り上げなかった。課題図書におもしろい物があったためである。
私事はこれまでにしておいて、「ケータイ小説」の誕生により新たな文学のカテゴリーが誕生したと言える。しかし国語の教科書に載せられるかと言うと、ほぼ確実に「No」を突きつけられるだろう。
理由は簡単でいじめ、レイプなどバイオレンス、かつ性的な表現が教科書を編纂する人たちに相容れられないと考える。実際に古典作品でも「好色一代男」や「南総里見八犬伝」があまり取り上げられていないからである。

4.「何が少女をそうさせたのか」
「ケータイ小説」の主人公の多くは女子中学・高校生である。実体験を基にしたフィクションというのは先に言及したが、本章では「第二次ケータイ小説ブーム」の火付け役となったChacoの「天使がくれたもの」を題材として「素直になれなかった事」、ケータイ小説によって描かれる「好き」の表現について考察を行っている。
実体験を基に書いてあるのだが、本章を読んでいくうちに「本当にそんな体験をしたのか?」という疑問さえ思ってしまう。しかし「私が想像できない体験をしてきた」からでこそ、「ケータイ小説」としての魅力も、少女の微細な表現も、引き込まれてしまうのかもしれない。

5.「男たちの中の少女」
ここでは美嘉の「恋空」を中心に男性中心社会(ホモ・ソーシャル)の中での恋愛模様について考察を行っている。
「恋空」を中心にといったが、参考資料として村上春樹の「風の歌を聴け」や韓流ブームの火付け役となった「冬のソナタ」も例に出している。著者は「冬のソナタ」の大ファンで気に入っているシーンは数十回観ているほどの筋金入りである。
「ホモ・ソーシャル」は簡単に言えば「女性蔑視」、この「恋空」も主人公や周りの女友達がレイプされ、妊娠するといったものが盛り込まれている。

6.「ポスト=ポスト・モダンとしてのケータイ小説」
「ケータイ小説」は確かに今までとは違う新しい「文学」を誕生させたといっても過言ではない。しかしその「ケータイ小説」は「性の軽さ」ということで非難の標的となっている事も事実として挙げられる。
ただ、読んでいくうちにふとした疑問点が見つかった。今から8年前に芥川賞で最年少受賞として名を馳せた綿矢りさの「蹴りたい背中」や同時に芥川賞を受賞した金原ひとみの「蛇にピアス」も「ケータイ小説」ではないが、主人公は女子高生であり、表現も「ケータイ小説」ではないがそれに近い物があった様に思えた。それらと「ケータイ小説」の違いとはいったい何なのだろうか。もう少し考察してみてもいいかもしれないと思った。

最初にも書いたとおり「ケータイ小説」は新しい「文学」であると私は思う。ただ今回は読んでいくうちに少し前にも書いたが、「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」、さらには「世界の中心で愛を叫ぶ」のように既存の文学でも「ケータイ小説」に似た表現が使われている。その違いとはいったい何なのかの疑問点が見つかった。それに関してはおいおい出てくるかもしれない(もしかしたら出ているかもしれないか)。