宇野千代氏は小説家である一方で服飾デザイナーや編集者、実業家など「多芸多才」を地で行くような方であり、さらに数多くの男性遍歴を持つ、といった波乱の人生を歩んで行った方で有名である。本書には同じ小説家の瀬戸内寂聴氏の推薦文が記されているが、数多くの男性遍歴がある、波乱にまみれたという点で通ずるものがある。
小説としてはそれほど多くなかったものの、自らの人生をモチーフにした作品が多く、惹きつけるものがあった。
「童話集」として十編取り上げられている。
<ぴいぴい三吉>
一九四七年に上梓された同名作品があるが、本作もそれが取り上げられているのだろうか。
それはさておき、泣き虫の三吉とよく鳴くすずめとの物語である。時代は明治時代あたりだろうか。その証拠に三吉が東京に移り住むくだりがある。
<ナーヤルさん>
三吉が東京に移り住んでからの話、インド人のナーヤルとの交流を扱っている。当時は珍しかった外国人であるが、お互い通じるもの、三吉とナーヤルの旅の綴りが今の私たちにはない人と人とのコミュニケーションの大切さがいかに重要かがよくわかる。
<三吉とお母さん>
三吉と母の物語であるが、私の中ではもっとも心に残った話である。私の母親は現在も実家の喫茶店で働いているが、その母親がもし病気になり、死の床に行きそうになったら、ということを想像させてしまう。兄妹はいるがそれぞれ働いている中で私は母親とどう接したらよいのか、考えさせられてしまう。
<靴屋の三平>
自らが犬や鳥になりたいと思ったことは必ず思ったことがあるだろう。しかしもしも自分が「本当に」そうなったときに自分はどうなっているのか、という考えを重ねあわせてしまう。それと同時に自分にそういう子供がいたら親の立場ならばどうしていたのだろうか、と考えさせられてしまう。
<詩人とお爺さん>
貧乏と金持ち、そして生きた「釜」の話であるが、本作の最後に「みなさん考えてごらんなさい」と閉められているが如く、考えさせられるような作品であった。
<空になった重箱>
「何でも手に入る自由」がある時の自分と、「恵まれていない」時の喜びを映し出している作品のように見えた。モノが豊かにあり、何の不自由なく手に入れることのできる社会に対する警鐘というべきであろうか。
<吉郎さんと犬>
吉郎という少年と二匹の犬の物語であるが、その二匹の犬の名前とつきあい方について考えさせられた。
<桃の実>
狐と男の話であるが、もっとも「狐」というと「化かされる」、もしくは「騙される」イメージが付き物と思ってしまう。この作品もそうであるが「騙される」ことの怖さを改めて知った作品であった。
<十年一夜>
狐を助けたお爺さんの物語である。動物がいかに尊い存在であるが、人間にとっての餌となったり、人間が動物を護ったりする事がある。この作品はどちらかというと後者のことを言っており、動物の大切さを知ることができる。
<腰ぬけ爺さん>
お爺さんと小鳥の物語である。お爺さんの卑しさに誘惑され小鳥の言うことですら忘れてしまうことにより、耳を傾けることの大切さを知ることができる。
著者の宇野千代氏は1996年にこの世を去った。あれから15年、彼女の生き様とそれに投影される描写は今もなお生き続けている。本書はおとぎ話であるが、98年の人生の中で大切なことが数多く詰まっている。そういった印象を受けた。
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