2013年10月28日、読売ジャイアンツ第三次黄金期(「V9」時代)の監督として、「打撃の神様」として日本プロ野球界に燦然と輝いていた川上哲治が逝去した。93歳と高齢だったのが、功績は今年国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄氏や松井秀喜氏以上のものだったと言える。
「打撃の神様」と呼ばれるようになった川上哲治氏の現役人生とはいったいどのような道をたどっていったのか、そして監督になり、「V9」と呼ばれた時代を築き上げていったのか、本書はその燦然たる軌跡をたどっている。
第1章「少年の心に宿った野球の喜び」
「勝負の鬼」「弾丸ライナー」「テキサスの哲」
様々な異名を持つ川上だが、熊本の裕福な家庭の長男に生まれたが、すぐに没落し、困窮になってしまった。その川上が野球を始めたのは小学生になってからのことである。弟や妹の面倒を見るのを母親から言われても野球に没頭し続けた。没頭し続けたことにより、メキメキと実力を付け始め、中学進学も野球の学費支援で進学することができた。後に甲子園に出場するようになった。優勝こそはならなかったものの卓越した打撃力がプロの目に買われ、東京ジャイアンツ(後の読売ジャイアンツ、以下「巨人軍」と記す)にスカウトされ、入団することになった。
第2章「打撃の神様への第一歩」
巨人軍が誕生したのは1934年である。そのときの有力選手は三原脩や沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンがいた時代だった。その選手たち、さらには他球団との戦いで鎬を削りながら強打者としての素養を築き上げた。
当時のプロ野球は「お客さんに育てられる」ような環境だった。それは良い活躍できているときは声援を送られ、悪かった場合は野次が飛ぶ、そんな時代だった。
第3章「伝説の大投手とじゃじゃ馬」
巨人軍、及び今日の日本プロ野球界をつくった正力松太郎の遺訓には「巨人軍は常に紳士たれ」「巨人軍は常に強くあれ」という言葉とともに、「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」というものがあった。アメリカでMLBが誕生したのは1876年(アメリカ・ナショナルリーグ誕生)のことであり、日本球界は「合資会社日本運動協会」が生まれた1920年だったことから、約40年遅かった。巨人軍が誕生した1934年の秋には、日米オールスター戦が行われ、僅差で敗れたものの、確実に成長していった。全米オールスターの中には「野球の神様」と呼ばれたベーブ・ルースがいた。
第4章「戦場という打席に立つ」
沢村やスタルヒンとともに活躍していった川上だが、奇しくも大東亜戦争の戦いに巻き込まれることになった。川上は徴兵を受け、陸軍の兵士となった。その中でも国のために努力をし、士官となっていった。
第5章「敗戦、バットを鍬に持ち替えて」
大東亜戦争は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えると野球に戻るかと思ったが、「家族を養わなければいけない」という思いが募り、農家になった。しかし、戦いと農業の披露が積もってか、過労となった。
第6章「亡き友と妻に誓った球界復帰」
農家として働いていたのだが、働く度にプロ野球の打席に立っていた感触が忘れられなかった。周囲も復帰を求める声があったほどである。しかし頑固一徹と呼ばれるほど堅物だった。
しかし妻の説得もあり、晴れて日本球界に復帰した。ちょうど、8球団1リーグ制のプロ野球が復活した1946年の時である。
第7章「球が止まって見える」
復帰した当初はヒットを得ることができなかったものの、やがて感覚を取り戻し、「赤バット」という異名が付いた。かくして強打者となっていったのだが、ここでも思わぬ障害が発生する。当時の監督・水原茂との対立だった。
さらに本章のタイトルにある美談だが、これは多摩川グラウンドで練習した時にその感覚に陥ったのは有名な話である。
第8章「壁一枚隔てたライバル」
川上が「打撃の神様」と呼ばれる用になった理由の一つには、強力な「ライバル」がいたからである。そのライバルは「じゃじゃ馬」と呼ばれた青田昇であった。青田と川上は共にライバルとして有名だったのは両者とも強靱にいた当時、住まいが隣同士であったためベニヤ板だけしか戸田たれていなかった。しかも川上・青田とも練習好きだったため、夜中に部屋の中で素振り合戦を行っていたのだという。
他にも「青バット」で有名な大下弘が有名で、「赤バットの川上、青バットの大下」というフレーズが強烈な印象を持っていたのだが、実際にそういったバットで鳴らしたのは1946年のみで、同年使用禁止になった。
第9章「米国で得た野球道」
戦後プロ野球界に復帰し、活躍を遂げていったのだが、同時に監督である三原脩の不信感も募っていった。その不信感と水原茂がシベリア抑留から帰国し、水島監督が三原に代わって監督をする事となった。その後水原とは第7章でも同じように語ったが対立があったのだが、途中でMLBのスプリングキャンプの招待を受け、参加したのだが、その体験の中で衝撃を受け、対立が解消され、以降は協力的になった。
第10章「現役引退を決意」
プロ野球の人気は高まっていったその一方で川上は体力の衰えを感じ始め、さらには長嶋茂雄などの大型新人が続々と巨人軍に入ってきたことにより、引退を決意した。長嶋茂雄が入団する前年の1958年のことだった。
第11章「川上哲治の流儀」
現役・監督としての川上哲治の考え方、信念の多くは「座禅」から学んだのだという。その座禅の中で「禅問答」が行われ、人生として、一野球人としての「真理」を理解していった。その修行後に現役を引退し、水島茂の補佐としてヘッドコーチに就任した。川上哲治の座禅の教えは後々多くの人に受け継がれていた。今年日本一に輝いた楽天の監督である星野仙一もその一人だった。
第12章「ONに受け継がれた闘魂」
現役引退後、水島茂の下でヘッドコーチを経て、巨人軍の監督に就任し、「V9」と呼ばれる黄金時代を築いていった。巨人軍の応援歌である「闘魂」は川上哲治から「ON」と呼ばれた長嶋茂雄・王貞治の2人に受け継がれ、「常勝軍団」としての巨人軍の機軸となっていった。
川上哲治は生涯、野球に、巨人軍に尽くした。現役・監督双方の人生を引退しても、である。巨人軍の創世から黄金、そしてプロ野球界そのものの繁栄を願い、実行していった川上哲治93年の生涯はプロ野球が続く限り永遠に忘れることはない。そう思った一冊である。
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