死体は見世物か~「人体の不思議展」をめぐって

展示に際しても、捜索に際しても「倫理的な問題」というのは避けて通れない。私は「人体の不思議展」に行ったことは内のだが、北海道に住んでいる時にはTVのCMでよく見かけたことを覚えており、実際に行きたくなったのだが、当時は大学生の時分でお金がなかったため辞めてしまった。

しかし、この「人体の不思議展」は、「死体を展示する」ということについて、倫理的な観点から議論は絶えず、「人体の不思議展」が開催される度に反対運動が起こっているのだという。

本書は「人体の不思議展」について、どのような反対があるのか、さらに海外における人体展示はどのようなものであるのか、そしてこれからの「死体」の扱い方はどうなっていくのだろうかについて考察を行っている。

第1章「世界初のプラスティネーション人体標本の一般公開」
「人体の不思議展」で人体を展示するとは行っても、死体をそのまま展示するわけではない。死体に「プラスティネーション」を施して人体の標本を作っている。「プラスティネーション」とは、

「人体組織に含まれる水分や脂質をシリコン樹脂、エポキシ樹脂、ポリエステル樹脂などに置換することによって死体を長期間保存できるようにする技術」(p.22より)

というものである。そのため死体を標本として保存できるようなものである。ホルマリン漬けにして腐敗を防ぐ方法もあるのだが、「人体の不思議展」では「プラスティネーション」で行われている。

第2章「「人体の不思議展」はなぜ問題なのか」
「人体の不思議展」が行われる度に反対デモが起こる。そこには「倫理的観点」もあれば「法的観点」もある。前者は「死体の尊厳」「死体の人権」についての解釈によるものだが、後者は「死体解剖保存法」と呼ばれる法の解釈と「公序良俗」の兼ね合いから賛否両論があるのだという。

第3章「「人体の不思議展」を支えた構造」
とはいえ、今日全国各地で催されている「人体の不思議展」はだれに支えられているのだろうか。一つは医学界として「日本解剖学会」の存在である。他にも日本医師会や日本赤十字社の後援もあって、「人体の不思議展」が行われているのだが、特に「解剖学会」は主体的な立ち位置にあるのだろうか、単に公開に踏み切って雲隠れをしたのか、本章ではそのことを中心に取り上げている。

第4章「諸外国における人体展示―規制と反対運動を中心に」
日本は反対運動があるとは言え、ある程度緩やかであるが、西欧に行くと、キリスト教などの宗教からの規制が強く、裁判にかけられることもあり、行われていない、あるいは中止になった所も存在する。

第5章「死体利用の歴史―収集と展示および解剖学実習を中心に」
「人体の不思議展」に限らず、死体展示など「死体利用」は存在していた。日本では明治時代には「博物学」の展示として使われ、開国以前にも解剖学実習のために「人体解剖」が行われたこともあった。

死体に関する扱われ方はこれからも法的・倫理的な観点で議論が続き、さらに法整備も進むことだろう。ただ、言えるのは倫理学・宗教学の観点と、解剖学などの生物学の観点の対立は平行線のまま辿るように思えてならない。「人体の不思議展」を始め、死体の尊厳の議論はその平行線の狭間にいると思えてならない。